今年度最初の例会は「知の巨人」こと行徳哲男先生のお話でした。
二度目の緊急事態宣言が発出されましたので、残念ながら今回もオンラインでの例会となりました。
行徳先生も初めてというオンラインでの講話でしたが、画面越しでもその情熱はひしと伝わってきました。

馴染めなかった姓と救いの国宝

行徳先生はこの「行徳」という姓が嫌いだったと言います。
漢文読みをすると「徳を行う」となり、ご自身はまるで違う生き方をしてきたからだということです。
それは「徳」というのが日本においては「謹厳実直」「品行方正」「高潔高邁」「清廉潔白」といったようにイメージされているからです。
でも碩学、安岡清篤の教えの中に「徳とは、そのように畏まったものではなく、天真溌剌、いわば無類の明るさ」とあり、つまり明るい人あるいは人間が大好きという人が徳を備えた人だと教えていました。
それを知ってようやくご自身の姓について嫌悪が和らいだと行徳先生は言います。

でも凡俗の真っ只中に生きているという行徳先生は、年中悩んだり迷ったり、あるいは煩悩に苛まれていると言います。
そんな行徳先生にはある一つの救いがあると言います。
それは京都の「広隆寺」の本尊であり国宝指定第1号の弥勒菩薩像です。
煩悩に苛まれたり、落ち込んだ利した時にこの弥勒菩薩を見つめていると不思議なくらい気持ちが和らいでいく。
最初はなぜ木像に、それも大仏でもないのに見ているだけで気持ちが和らぐのかよくわかりませんでした。
ある時寺の館長から教えを受け、20世紀最高の哲学者と言われ病理学者でもあるドイツのカール・ヤスパースが戦前に日本を訪れた際、この弥勒菩薩像を見て「この姿こそ人間が達しうる最高の気高さ」だと讃えた、ということを聴きました。
カール・ヤスパースは30年にわたって世界中の仏像を見て回ったのですが、その中でもこの弥勒菩薩の美しさは「他に類を見ない」と言いました。
ただ、行徳先生が納得をしたのは彼のその後の言葉でした。

「この気高さを出せる人とは、まず過ちを犯した者である」

弥勒菩薩像が魅せる気高さ、美しさを出せるのは罪を犯した人でしかない、このヤスパースの人を見る目の深さに行徳先生は感銘を受け、同時にご自身の生き方に照らすことで、この「木像」が安らぎを与えることを理解しました。
そして、過ちを犯すことでこのような美しい姿になれるのだから「煩悩の真っ只中を生きる」という気持ちをさらに強く持たれました。

煩悩の中に生きること、妄想にかられるということはネガティブに捉えられがちですが、妄想を取り除こうとすることこそ妄想だと行徳先生は言います。
躓いたっていい、そうやって生きていくと、生きていくことが楽になる。
だから最近は「行徳」という姓も満更ではない、という気持ちで生きているということでした。

相変わりて御芽出度候

現在はコロナ禍によって世界中の人が大変な時代を迎え、戸惑い浮き足立っています。
大変とは「大きな変化」であり、この大きな変化の中どうやって生き残るか、ということに皆迷っていると行徳先生は言い、ある過去の偉人の話を教えてくれました。

明治5年の正月五日の出来事です。
番頭が当主の住友友親の前に出て年始の挨拶をします。
「今年も相変わりませず、おめでとうございます」と一番番頭から挨拶をしていった中で、殿であった広瀬宰平という人だけが先輩番頭とは真逆の挨拶をしました。
「今年も相変わりましてこそ、おめでとうございます」(相変わりて御芽出度候)
当然この挨拶は物議を醸します。
この広瀬宰平という人物は幼い頃に叔父に従って当時住友家が経営していた愛媛県新浜の別子銅山に奉公にあがりますが、当時の重労働の中でも夜な夜な論語を読み耽っていたといいます。
そこから番頭に抜擢をされて、先のような挨拶をすることになりました。
もともと他の先輩番頭と違って家柄でなく、銅山鉱夫から抜擢された人なのでそもそも嫉み、やっかみがある中でのこの挨拶でしたから、先輩番頭は面白くありません。
年始の挨拶は「今年も相変わらず」というのが慣わしであり、「今年も相変わりましてこそ」とは何と不吉な挨拶だ、と先輩番頭たちは広瀬宰平をなじりました。
彼は先輩番頭に向かって言います。
「いったい相変わらないということがどれ程おめでたいことです。時代は激しく移り変わっている。その激動劇乱の中を相変わらんことをおめでとうとして住友100年の計が立ちますか!
我々番頭が本当に住友の隆盛を願うなら、なんで『相変わってこそおめでとうございます』と願わない、なんでそう誓わないのです!」
先輩番頭たちには返す言葉がありませんでした。
このことは当主の住友友親の耳にも入りました。
当時の別子銅山は富国強兵を推し進める国策においてもまさに「宝の山」、鉱夫として山に入っていた広瀬宰平はそのことをよく理解していました。
そこへ銅山経営を接収したかった新政府は土佐藩士の川田小一郎を派遣し、鉱山労働者に労働争議を画策します。
しかし広瀬宰平と甥の伊庭貞剛の決死の闘争によって労働争議は終息、「もともと幕府領の別子銅山であるが、住友家が発見し独力で経営してきたもの。しかるに、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反する」と訴え、川田小一郎を説き伏せました。
この広瀬宰平の働きによって、現在の住友の磐石を築きました。
(広瀬宰平は住友の初代総理事、伊庭貞剛は第二代総理事となった)

このエピソードは現在の我々に何を教えてくれたのか。
「相変わってこそおめでとうございます」まさに時代は激しく移り変わっている。
コロナによって世界中が大騒動になっている、この変化をどう生き残れるか。
行徳先生は現在取り組まれている陽明学の教えの中からこの大変な時代を生き残るための「最高の武器」を教えてくれました。
『天下のこと万変といえども、吾がこれに応ずるゆえんは、喜怒哀楽の四者を出でず』
(人生は千変万化、いろいろさまざまであるが、私がこれらの問題を処理できるのは、人生のいかなる変化も、つきつめれば喜怒哀楽の四つを出ないことを知っているからだ)
つまり、どんなことが起こっても喜怒哀楽を素直に思いっきり表すことだと行徳先生は言います。
嬉しい時は跳び上がって喜び、悔しい時は表に出して激怒する(憤る)、悲しかったら慟哭する。慟哭とは号泣よりもさらに哀しむことで、もともとは孔子が一番可愛がっていた弟子が争いに巻き込まれて殺されてしまった時に表した激しい哀しみから生まれた言葉です。
喜怒哀楽こそ生きる力であり、エネルギーであり、人間の感性のことです。
現代はこの感性摩滅の時代と言われていますが、これは命の摩滅というべきことだと行徳先生は言います。

野生の鴨の教え

1855年11月にデンマークのコペンハーゲンで一人の行き倒れの人物が病院に運び込まれましたが、その後彼を引き取ろうとする人が現れませんでした。
彼は生前「デンマーク一番の嫌われ者」と言われた人物でした。

デンマークは宗教国家で、国が教会を建て、牧師は皆公務員の扱いです。
彼は礼拝のために人が集まる日曜日の教会の前で、教会と集まった人に対して「瞬間」と書かれたビラを配って攻撃をしていました。

「あんたたちは月曜日から土曜日までボンヤリ生きてこなかったか?
曖昧を生きてこなかったか?
半端に生きてこなかったか?
そして日曜日になると教会に来てアーメンを唱えて十字を切り、賛美歌を歌い、牧師の話を聴くことによってボンヤリ、曖昧を生きてきたことの罪を許してもらえたと錯覚して、また月曜日から曖昧を、半端に生きている」

「半端に生きることは犯罪ではない。
しかし明らかなる罪だ。
なぜなら生きることは一度しか無いからだ。
曖昧を生きることの許しをもらわんがための教会の礼拝など辞めてしまえ。」

国教を攻撃する彼に対して人々は石を投げ、棒で殴られたこともありました。
しかし彼は世の中からの攻撃を受ければ受けるほど「私は紛れもなく生きていた」という強烈な生の証を残し、雪の中で野垂れ死にした、まだ42歳でした。

彼は出生に大きな傷を持ち、身体的なハンデを背負っていました。
彼はその療養のためにデンマーク郊外のジーランドという湖のほとりにある別荘に行ったことがありました。
その湖には毎年野生の鴨が飛んできていました。
その湖の近くに人の良い老人が住んでおり、この鴨に餌付けをしていました。

ここで行徳先生は最近の子どもの名前で人気の文字である「翔ぶ」という字について教えてくれました。
この「翔ぶ」というのは野生の鴨のように長距離を飛ぶ渡り鳥などでのみ使われるもので、スズメやカラスには使われません。
では、野生の鴨はどれぐらいの距離を飛ぶのかというのをアメリカのNASAが実験をしたところ、その距離は何と1万200km、時間にして1週間と7時間をかけてその距離を飛んでいることがわかりました。
さらに驚くのが、この間休むことも寝ることも、そして食べることをしないで飛び続けていました。

そんなたくましい野生の鴨がそのジーランド湖に飛んできていました。
餌付けをしていた人の良い老人は、やはりこの野生の鴨達が大変な距離を飛んできたことを労うために美味しい餌を用意して与えていたわけです。
鴨たちにとっても、このジーランド湖は景色もよく毎日おいしい餌にありつけるという最高の環境でした。
本来なら季節によって餌を求めてその地を離れるわけですが、この鴨たちはその環境に慣れ飛ぶことをやめて住み着いてしまったのです。

ところがある日、餌をやっていた老人が死んでしまい、餌が食べられなくなってしまいます。
飛ぶことをやめてしまった鴨たちは、飛ぶどころかかけることもできなくなってしまっていました。
そんな時に、近くの山の雪解け水が激流となってこの湖に流れ込んできました。
かつて驚くほどの距離を飛んでいたたくましい野生の鴨たちも今や醜く太り、飛ぶこともかけることもできないために、その激流に押し流されてしまいました。

この話は「野生の鴨の教え」と言われ、後に「実存主義」という哲学となりました。
日本人はこの哲学を学問としてしまったので「難しいから自分には関係ない」と考える人が多い。
しかし、哲学とは学ぶべきものではない、「哲学はすることと学ぶべし」と行徳先生は言います。
哲学とは頭で考えるものではない。

この「野生の鴨の教え」をビジネスの世界に持ち込んだのがIBMを世界企業に育て上げたトーマス・ワトソンです。
彼はこの野生の鴨の哲学に大変な衝撃を覚えて、わずかな社員たちと作った合言葉が「野鴨たれ」です。
そして、この社員たちが3900人になった時に、ワトソンの息子によって書かれたのが『3900羽の野鴨たち』という本で、これはアメリカでベストセラーになり、あのアップルのスティーブ・ジョブズも読んでいました。
ジョブズが言った「ステイ・ハングリー」や、アップルのロゴマークは剥いていない「丸かじり」のリンゴは正に彼が「野生」に憧れて、「野生の鴨の教え」を創業の哲学にしていたことがわかります。

現在の平和と向き合う

日本人は敗戦のがれきの中から頑張り、経済大国を築き上げた。
そんな中で行徳先生が大変癪なのが「水」、有料の水だと言います。
戦争中に育った行徳先生は「水に金を出す」という習慣はありませんでした。
どこでも、水はタダで飲めました。
極端に言えば田んぼの水だって、澄み切っていたら飲んでも下痢をしなかった。
山に行くと、水はふんだんにあり、もちろんタダ。

こんなにおいしい水がタダで飲める国が、世界でどれほどあるでしょう。
そして何よりも、日本人は安全、自由、平和です。
ですから外国人に言わせれば「日本人はおいしい水と平和はタダで手に入ると思っている世界でたった一つの民族だ」と。
さらに行徳先生は「平和と向きあおうとしたことがありますか?」と尋ねます。

行徳先生は若者たちを連れてよく旅をする、平和と向き合うためにいろいろな所に出向く。
その一つがカンボジアの「キリング・フィールド(虐殺の広場)」。
キリング・フィールドというのは映画にもなったところで、一面の野原ですが、生えている草の間が布だらけになっている。
その布の下には、未だに処理できないたくさんの何千体という遺体。
それを見て、何人もの若者たちは吐きました。
嫌というほど「平和とは何か」を見せつけられた場所だったということです。

「平和とは何か」を感じさせる場所は、海の向こうまで行かなくても、日本にも何カ所もあるとおっしゃいます。
その一つが鹿児島の知覧です。
ある時、行徳先生は台風に出くわしたことがあり、記念館から半日出られないということがありました。
そこで行徳先生は、半日間の間に引き出しを開けて、千名以上の人が遺した、特に若者たちによる遺書をていねいに読みました。
その遺書の中には17歳の若者のものが7通あり、そのうちの1通の中にはこんなことが書かれていました。

「母さん、先に旅立つ不孝を許してください。
明日特攻隊員としての名誉ある命令を受けました。
あと1日の命です。
残す1日を目の前にして、この17年間何のために生きてきたか、ようやく訳がわかってきました。
かわいい妹や弟、生まれてくる子ども、そして日本の永遠のために命を捧げます。
父さん母さん、17年間、本当に本当にありがとうございました。
天国で待っています。」

たった17歳の若者が、こんな遺筆を残して南に散っていった。
窪塚洋介さんが主演の特攻隊の映画の中で、食堂のおばちゃんに特攻隊員で宮川という20歳の子が、「僕は必ず帰ってくる」と言うシーンがありました。
燃料は片道しかないのですから、帰れるわけはない。
食堂のおばちゃんが「どうやって帰ってくるの?」と聞くと、「僕はホタルになって帰ってくる」と言う。
実際に、食堂の裏側には小さな川があり、そこに大きなホタルが飛んでいました。
季節外れに行ってもホタルが飛んでいるということです。

逆に特攻隊で飛び立つ我が子に宛てた手紙もあります。
「小泉信吉への手紙」というその手紙は、今の上皇陛下の教育係であり仲人をされた小泉信三さんが御子息に書いたものです。
そこにはこんなことが書かれていました。
「君の出征に臨んで、言っておく。
我々両親は完全に君に満足し、君を我が子と思うことを何よりにも誇りに思う。
もし生まれ変わることを許し、妻を選べと言われたら、幾度も、幾度でも君の母さんを選ぶ。
同じように我が子を選べと言われたら、我々夫婦はためらいもなく君を選ぶよ。
親をして子を言わしめる、これ以上の親孝行はないぞ。
どうか心置きなく、国のために殉じてこい。」

行徳先生は言います「私たち日本人は、平和と豊かさを貪っている」と。

国難に立ち向かう

「野生の鴨」の哲学が何を言いたかったのか、それは人間の「悪」とは何なのか、ということ。
「悪」と言うと刑法上のことを思い浮かべますが、悪の根源とは何かというと「安住」と「安楽」だということです。
日本人は平和を貪り、「これでいいじゃないか」「何とかなってるじゃないか」「こんなもんじゃないか」と思う事自体が悪であり、悪の根源であると行徳先生は断じます。

ゲーテは「安住安楽は悪魔の褥」だと言いましたが、日本人は今この「悪魔の褥」に寝かかっている、と行徳先生は警告します。
美味しい餌と美しい景色に慣らされて羽ばたき飛ぶ力を失った野生の鴨たち。
安住安楽を貪った人間は何を失うのか、それは「気の喪失」だと行徳先生は言います。
フランスに「マルドシェクル」という言葉がありますが、「正気の病」という意味です。
人間がかかる「正気の病」とは、「気の喪失」という病なのだそうです。
現在誰もがコロナを恐れていますが、それよりも恐ろしいのが気が萎えること「気の喪失」だということです。
現在コロナという国難が襲いかかってきていますが、かつて黒船来航という国難にあって、こう述べた人がいます。
「国難襲来す
 国家の大事といえども深慮するに足らず 
 深慮すべきは人心の正気の足らざるにあり」
これは当時の水戸藩士で儒学者の藤田東湖が吉田松陰に贈った言葉です。
国難にあってもジタバタするな、心配すべきは人の気が萎えることだ、という哲学です。
今は誰もがコロナに怯え、浮き足立っているが、これはつまり気が萎えているということ。

コロナを国難と言うが、日本にはこれまで幾度も国難に襲われている。
応仁の乱では、今日の京都が死体で埋め尽くされ、死臭が漂っていた。そんな中民衆が立ち上がり今日の京都を蘇らせましたが、それはお祭り、祇園祭によって民衆の気持ちを昂らせたからです。
さらにそれより以前には「蒙古襲来」という国難もありました。
ヨーロッパをも席巻した巨大帝国が日本に属国を迫ってきた際、時の執権 北条時宗は若干18歳にして敢然と立ち向かいました。
はじめどう対処すべきか迷っていた時宗は、自身が中国より招いた無学祖元という僧に尋ねました。その時無学祖元は時宗に「驀直去(まくじきこ)」という言葉を与えました。
その教えがわからない時宗は考えに考え、それでも解けないことから額を壁にうちつけ、額が割れて血が飛び散るまで打ちつけた。そこで(迷わず真っ直ぐつき進め)ということを悟った時宗は、元からの死者の首をはね、その後の元の大群を迎え撃ちました。
二度の元の襲来では、神風が吹いて元の大群が壊滅された、と言いますが、それ以上にこの北条時宗の決意、気概こそが日本を救ったのだと行徳先生は言います。
このことからも、日本人は現在のコロナという国難にあっても対処できる民族であるはず。
国難に怯えることなく、立ち向かって国難を突き抜けることだ、と行徳先生は激励してくれました。

行徳哲男×大泉会長 対談

大泉
以前、危機的な状況ではなくても「安住安楽」に陥らないためにどうすれば良いか、ということを尋ねましが、その答えが「ホラを吹け」でした。
行徳先生
ホラを吹くと言うのは自分を追い詰めることです。
「安住安楽」に陥らない、「これで良いか」にならないためには自分をいつも追い詰めることです。

大泉
ホラを吹こうとしても、できる範囲でしか言えないが、どうすればいいでしょうか?
行徳先生
志を立てること、使命を持つこと。
そのためには「人物をやること」。
吉田松陰は「学は人たる所以を学ぶなり」と言いました。
学びとは読み書きそろばんのことではない。それは技術であって、学びとは自分がどう生きるかを考えることであり、それを多くの偉人たちの生き方から学び、自分の目指すべき姿を見つけることです。
私はそれが幕末の国難において日本を救った山岡鉄舟だった。
江戸城無血開城のお膳立てをして江戸を焼け野が原から守った。
引いては欧米列強に隙を与えず、西郷隆盛とともにその脅威から日本を守った。
だが、決して二人とも生き方が上手、順風満帆という人生ではない。欠点だらけ、傷だらけ。
「短所の數(かぞ)ふべきあらば便(すなは)ち是れ第一等の人」とは春日潜庵の言葉ですが、欠点だらけを生きること、短所だらけを生きることです。決して聖人君子になろうとしないことです。
過ちは人間の「味」を作る、人間が深くなる。人間、躓かなければ本物にはなれません。

大泉
不安を抱えている時ほど行動しろとも教えてもらいました。
行徳先生
現代人は兎角頭を使うから行動しません。
石を投げる時に「どこに落ちるだろうか」と落ちる場所ばかり考えて投げられない。
石がどこに落ちるかは投げてみないとわからない。すべては行動です。
鎌倉の円覚寺に横田南嶺という名僧がいますが、何事も「ようこそ」が良いと言います。
コロナでも「ようこそ」です。
これは受容のこと、「感ずる」とは受け入れるということです。
考えるから拒否してしまう。これからは拒否の時代ではなく、受容の時代です。
靖国神社に銅像がある大村益次郎は大分県日田市にあった咸宜園(かんぎえん)という私塾で学びました。
ここを作ったのは広瀬淡窓という儒学者で、咸宜とは3000年前の殷の時代の教えで「ことごとく宜しい」という意味です。
誰がきても構わないという私塾です。
私の周りにも色々な人が来ますが、罪を犯した人でも、誰が来ても構わん、何があっても構わん、何があっても宜しい、咸宜です。
そうやって生きると楽しくなります。
コロナは逆風ですが、スキーのジャンプを見ればわかりますが、逆風だから高く飛べて距離が出ます。
逆風が力をつけてくれるのです。

 

今回も本当にたくさんのお話を通して参加者全員勇気づけられました。
行徳哲男先生、ありがとうございました。

また、ご参加いただいた皆様にも改めて感謝申し上げます。