2024年活動テーマ「不易流行〜価値共創の未来へ」

沿革

1995年1月  東京経営研究会設立

2006年1月  千葉経営研究会・埼玉経営研究会分邦

2010年1月  神奈川経営研究会分邦

2013年6月  西東京経営研究会分邦予定

東京経営研究会は2013年をもちまして19年を迎えました。
各年度会長の方より東京経営研究会へのコメントを頂戴しております。

 

初代・2代目会長 高嶋 民雄(1995年・1996年度)

光陰矢のごとし、私が1994年に7TTを受講して10年が経過しました。
受講中の8月に、日創研の田舞代表から「来年1月から経営研究会を設立したいので協力して下さい」との要請を受けました。設立の目的は「LTを受講した人たちが自然発生的にLT会なるものを勝手に立ち上げて問題が発生し、日創研としても放置することができない状況が生まれてきたことと、LT・TT卒業生のフォローを行うことにより、日創研としても、卒業後の人財育成を継続していくことが非常に大切な仕事であるとの認識によるもの」であります。
今日の発展を見るにつけ、まさに田舞代表の先見性のすばらしさを感じると共に、時代の必然性を感じます。
各地区の代表が決まり、私は東京経営研究会の会長と本部副会長(他の3人は橋本さん・伊藤さん・森さん)を拝命しました。
まず始めに行ったことは、本部正副会長会議を何度も何度も開催し、「理念をどうするか?」ということでした。
何度も修正し、難産の末に、ようやく現在の一つの理念、二つの目的、三つの誓いができ上がったわけであります。
現在の各地経営研究会の発展ぶりを見ると、「あの時の苦労が少しは役に立った?」のではと改めて理念の大切さを痛感します。
一方、東京経営研究会はというと、高橋勇さんや都築さん、市川さん、竹前さん、小池さん、井口さん、榊原さん、伊藤勝さん、今井さん、小山さん、永井さん、日高さん、両角さん、初山さん、内藤さん、松薗さん、小林嘉孝さん、野辺さん、石坂さん、塚本さん他多くの志を共有する仲間でつくることになりました。
はじめは、どんな会になるか誰も分からない中で、「とにかく経営や人間磨きに役立つことをやろう」ということで、試行錯誤の連続でしたが、理事会、委員会を中心に活動を行いました。
私自身の至らなさで、途中で退会された皆さんには大変申し訳ない気持ちと、現在も大活躍していただいている皆さんには、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
創立時の念(おも)いを少しでもご理解を頂き、今後とも会員にとって多くの学びが継続してできる魅力ある会に更なる発展をするように期待すると共に、一層の努力をして参りたいと願っております。
会員企業の益々のご発展と皆様のご多幸を心からお祈り申し上げます。
ありがとうございました。

 

3代目会長 高橋 勇(1997年度)

日創研経営研究会が創立され10年目という大きな節目を迎え、その間、私も会の運営に関わり合いを持つことが出来、大変嬉しく、会員の皆様に心より御礼申し上げます。
思い浮かべますと、私が8TTを受講している時にこの会の話が持ち上がったと記憶しております。
そして初代会長の高嶋さん、都築さんとこの会を設立するにあたって会員の募集やら、会の運営やらを高嶋さんの会社で夜遅くまで打ち合わせをしたことを大変懐かしく思っております。
この会の設立にあたっては高嶋さんの並々ならぬリーダーシップと努力によって立ち上げることが出来ました。
その間私も色々と参画させていただき、勉強させて頂きました。
平成9年、私が皆さんの推挙により会長にさせて頂きました。
大変不安でありましたが、良い勉強になると思い、会長職を受けさせて頂きました。
FC満開の私ですので、役員はアダルトの高い方々にお願いし、副会長には小池さん、市川さん、井口さん、事務局長には池谷さん、総務会員拡大委員長には都築さん、経営理念委員長には日高さん、戦略委員長には永井さん、リーダーシップ委員長には伊藤さんにお願いし、素晴らしい方々のご支援により会長職を一年間無事務めることが出来ました。
池谷さんには私のパートナーとして、私の至らない点をしっかりカバーしていただき、大変助かりました。
又、永井さんには戦略の委員長として、1月の旭製作所の企業訪問と伊藤社長のご講演を企画していただき、大変有意義な例会で私の会長としてのスタートを切れたことをはっきりと覚えています。
その後、10月の宇都宮経営研究会との合同研修会を企画していただき、東日本ホテルで中村功社長の講演会、並びにスーパーふくだやさんの見学会、翌日はステーキ宮の社長の講演、又、大谷石の採掘現場の見学と、非常に内容の濃い、又充実した例会をしていただきました。
又、この年より本部主催のディベート全国大会を行ない、成功裏に終わることが出来ました。
会員一人一人のご支援の賜と感謝の気持ちで一杯であります。
会長を終了した後も経営研究会、関東地区の活性化委員会もさせていただき、その後本部の副会長をさせていただいております。
この10年間を振り返ったとき、私が会長をさせていただいた頃と現在の会では、会員数、会の内容等見ましても、格段の差があり、歴代の会長の方々の努力の賜と心より御礼申し上げます。
これからもこの会で学び社会に貢献出来る人材になるよう、努力して参りたいと思っております。
この会は会員一人一人が主役です。
是非、自分の力を発揮する場を自分で求め、自ら進んで自己成長の為、積極的に行動して頂けたらと思っております。
これからも会の理念を実践し、豊かな人生、強い会社創りを目指し、共に頑張りましょう。
(2004年12月 設立10周年記念誌より)

 

4代目会長 市川 由貴子(1998年度)

東京経営研究会が10周年を迎えられました事、心よりお祝い申し上げます。
7TTを受講中、田舞会長から経営研究会を創られるお話を伺い、どのように経営の役立つ会になるのか訳も分からず参加をさせて頂きました。
設立及び2期の会長であられた高嶋民雄さん、3代目会長の高橋勇さんを始めとして、経営者として尊敬する素晴らしい先輩や仲間に出逢うことが出来ました。
4代目の会長に決まった折には、大きな重圧を感じたことを思い起こします。
しかし、素晴らしい補佐役に黒木衛さんが事務局長に就任して下さり、また、副会長や委員長の皆様にも恵まれまして、一心に突っ走る我がままな私を上手にカバーしてくれました。
ディベート大会も東京が正式に主管することとなり、どのように運営し、おもてなし、ディベート大会を成功させるか、夜中や朝まで、案内の冊子等を、何回も何回もつくり替えたことや、会員目標数の100名に向けた拡大を、東京センターの2階をお借りし、毎週のように案内をしたことを昨日の事のように思い出します。
今日の東京経営研究会を見ますと、その後の歴代の会長・事務局長・理事役員の皆様方のご尽力により、160名を超える会員を有し、組織的にも内容的にも夢のように立派になられたと感じています。
今後の益々の発展を祈りますと共に、私も一生懸命に関わっていきたいと思います。
4代目が決まった時、「君は幸せだよ。100人の社長を相手に、しかも無償で経営の勉強が出来るんだから、100人いたら100年に1回のチャンス。がんばれ!」と言って下さいました。
日創研の学びの本質、「やるか、やらないか、その時はやる!」やらせて頂いて得た経験は、机上を超えた大きな学びであったと実感します。
有り難い経験を衷心より感謝申し上げます。
会員の皆様、チャンスが訪れましたら、何事にも絶対チャレンジして下さい。
(2004年12月 設立10周年記念誌より)

 

5代目会長 井口 一与(1999年度)

 「何が何でも150社に!」
東京経営研究会の設立10周年おめでとうございます。
早いもので10年間、日本経済も小生も随分変化して参りました。
日創研さんとのご縁は平成6年7月にSAを宇田川氏に強引に勧められてからであります。
この頃、高嶋氏(初代会長)と榊原氏(初代事務局長)が7TTを終了された年の暮れに東京経営研究会発足の話を聞き、何が何だか解らない裡に、高嶋氏、榊原氏の指示・命令と杉並区在住の因で初代の総務会員拡大委員長に就任。
2代目高橋勇氏、3代目市川氏の素晴しい先輩会長の後、平成11年度4代目会長として大変微力な井口一与が成った。
田舞本部会長の下、3人の先輩会長にご指導ご援助を賜り本部の方針を適確に実施する責務を感じた次第であります。
要の事務局長は、致知出版の今井氏に御願い致しました。
当時、未だ会員数も少なく会員拡大には大きな目標を掲げましたが、本部活性化委員長の木村氏にお会いする事毎に「東京の150社は大丈夫?」と聞かれ、会員拡大に付いては信用が無いと思いましたので「何が何でも150社」にする決意を東京経営研究会の会長として致しました。
そして、会長としての使命感を非常に強く感じた次第でもあります。
最も勢力的に行動して頂いたのは当時の両角総務会員拡大委員長でありました。
山梨、茨城県等にも何度となく参りまして多くの皆様のご協力を頂き、両角氏と「何事もやれば出来る」事を共に痛感いたしました。
更には、本部の木村氏と日創研の米国研修旅行に同行した10代目会長となった高瀬氏から「会長、今年度に必ず150社をやります!」と大変強い口調から熱い思いを感じ、本当に凄い味方が現れ150社達成出来るぞと確信した次第であります。
多くの皆様が積極的に行動された成果と、日創研さんからも大きなご援助を賜りまして見事に150社を達成致しました。
多くの方々との出会いに深く感謝いたすと共に、此れからの東京経営研究会の益々の御発展を心よりご祈念申し上げます。
(2004年12月 設立10周年記念誌より)

 

6代目会長 黒木 衛(2000年度)

平成9年、市川会長の事務局長を務める中で、多くのことを学ばせていただきました。
まず当社の総務女子社員と二人三脚で、会員宛の全ての文書作成と送付、FAX送信を一年間継続したことが、その後の自社経営に大いに役だったことを感謝している次第です。
会長としての任務は想像以上に責任が重く、今考える時、役職の20%程度しか果たせなかったと反省しています。高瀬事務局長の確かなスキルと若さに支えられ、何とか一年間を乗り越せたことは確かであり、心より感謝しております。
会創立10周年、誠に感慨深いものを感じるのも、自分の多くの体験があればこそと自認するところです。
ディベ-ト大会の勉強会の中、ホテルで缶詰、徹夜状態で会員各位から突き上げられたこととか、ロバ-ト議事法の勉強会を繰返しながら実践にそって理事会に応用しても会議に成らなかったりとか、いつもハラハラ、ドキドキの会長だったのも昨日のようです。
今10年目を節目として、会員160名以上を容し、全国一の東京経営研究会として11年目。
本田会長の元、スタ-ト出来た事に心よりお祝いを申し上げます。
(2004年12月 設立10周年記念誌より)

 

7代目会長 鳥海 靖久(2001年度)

「感謝の一年間でした」
天命です」と突然、高嶋さんに会場前のホールで言われ、金縛りになった状態で理事会会場へ入ると、「次年度会長方針を御願いします」と、いきなりの司会者の言葉。
「ホウシン(方針)と言われても、ホウシン(放心)状態なんです」と、足を震わせながら答えた事がつい先日のことの様に浮かんでまいります。
当時、ケネディー大統領とは次元こそ違いますが「神よ、私に力を与え給え」と何度もお祈りしたものでしたが、三役の皆様(野田さん、高瀬さん、小河原さん、安田さん)に力を頂き、各委員長さんを始めとする理事の皆さんに支えられての1年間でした。
準備段階として、まずは「会員アンケート」を実施し、「会員の、会員による、会員の為の経営研究会」とは、どうあるべきかを話し合い、3つの方針(会員企業の課題の明確化、効果的実践的勉強会の実施、会の効率的運営)をつくり、さらに協議を重ね、本学と末学を組み合わせながら、各例会、勉強会を実施させて頂きました。
桧山講師、藤原直哉先生、高島健一先生、石川洋先生から、不易流行のリーダーシップを学び、鈴木先生、岡野先生からディベートの面白さ、岬龍一郎先生から武士道、野垣先生からマーケティングを学びました。
また、総務広報合同委員会で、パソコン勉強会を開催し、今では当たり前ですが、やっとウイルスと戦いながらもメーリングリストをスタートする事が出来ました。
準備段階から含めると、会合(例会、委員会、理事会、三役会等)の合計回数は100回を超えたものでした。
が、大変学びの多い1年間だったと、自負いたしております。
これもひとえに微力な私に力を与え、支えてくれた理事の皆さんと、どこまでも協力してくれた会員の皆様のお陰と心から感謝いたしております。
(2004年12月 設立10周年記念誌より)

 

8代目会長 野田 清紀(2002年度)

「感汗楽学からの改革」
早いもので私が会長を務めさせていただいてから、2年の月日が流れました。
そして、東京経営研究会にロバート議事法を持ち込んで4年の歳月が過ぎました。
この間、会員数は110余名から、160名を超えるまでに拡大しました。
05年大阪が南北に分かれると、全国で最大の経営研究会となりました。
今でも思い出されるのは、最初の三役会を山梨で開催したときの事です。
台風の影響で、JR中央線と中央道が止まり、三役会の開催さえ危ぶまれました。
しかし、なんと定時に小河原、小山、高瀬副会長と里和事務局長が集まってくれたのです。
私はこれで来年の経営研究会のゴールが見えてきたと思いました。
甲斐の国、大名武田信玄は、「人は石垣、人は城」と申しました。
さあ、基礎は出来た、後は城を組上げるばかりだ。
次は、理事会を活性化する番です。
当年度となった1月、山梨で理事会を開催しました。
もちろん、全員出席でした。
それから12ヶ月、6月と12月にも山梨で開催しましたが、理事さんは全員皆勤を持って終了しました。
後の活動は、皆さんの評価で結構です。
ともかく、皆さんの御協力を持って、東京経営研究会のエンジンに点火できたのが一番の仕事であったと思っています。
10周年にあたり、8年目を振り返る時、改革の転換期に会長を任せて頂いた会員諸兄、諸先輩方に深く感謝をいたします。
ありがとうございました。
(2004年12月 設立10周年記念誌より)

 

第9代会長 小河原 正光(2003年度)

「一 心 多 彩 」
個性豊かな人財からなる東京を心ひとつにと、そして社長だけが勉強熱心でも幹部・社員さんが冷めていたら良い会社にならないので「社員さんを巻き込んだ経営研究会にしよう!」というのが2003年度の会長方針でした。
良い方針だと思いますが、これが・・・この方針が出来るまでの苦労・・・大変でした。
それまでは、時の会長の方針に沿って行動していたのが、いざ自分が年間の方針をと考えた時、何も出てこず困りました。
2002年6月次期会長に決まり12月までに年間の全てを半年間で整えるのですから大変!
6回の会長方針の書き直しで精神的なプレッシャーで吐いたり、下痢をしたり・・・ゲッソリ痩せダイエットしてるの・・・と言われるぐらいでした。
いかに今まで楽をしていたか・・そして自分の能力不足や、自社のように給与授受のない関係は、並大抵のリーダーシップでは通用しない事を、いやって程思い知ったのでした。
しかし、前任の野田さんは【会員の、会員による、会員のための】会でなくてはならないと強く唱え、「感汗楽学 ~ イノベーション東京 」で大変革され、仕組みも出来つつありましたので、方針が明確になったら三役、理事さんもまとまり【いっきに目の前が明るく】なりました。
2003年スタート!1月の三遊亭歌ノ介さんから始まり、12月女優の紺野美沙子さんで締めくくって、多くの会員さんが社員さんと共に参加していただき「一心多彩」に相応しい年でした。
私、個人的には村田兆冶氏の球を受け止めた事が心に大きく残っています。
(2004年12月 設立10周年記念誌より)

 

10代目会長 高瀬 誠(2004年度)

「まさしく温故創新!波乱の一年間」
私は三代目高橋勇会長の時東京経営研究会に入会し、今年で8年目になりますが、入会時にはまさかこの様な歴史ある会の10代目という節目の会長職を仰せつかる時が来るとは、夢にも思っていませんでした。
しかし、大任を仰せつかった以上は、6代目黒木会長の時から三役を拝命し培った経験を昇華させようと「温故創新」というテーマを掲げましたが、2004年はまさしく温故創新と言うべき波乱の一年間でした。
先代小河原会長の時から懸案だった「会長二年制度導入」について、次年度予定者の段階で田舞本部会長と激論を交わす事となり、就任前から次年度三役・理事会で深夜まで意見を交わす日々が続きました。
三役担当の1・2月の例会では、皆様のご協力で過去最高の動員で弾みをつけて頂き、その後もほぼ毎回100名以上が参加下さる、活気溢れる例会を各委員長が展開して下さいました。
公開委員会も活発に行われ、うまく活用した方には最も会費がお値打ちだった年ではないでしょうか。
また一方では、大事件が連発した一年でもありました。
就任早々には事務局長時代に監事としてお世話になった高橋松作さんが死去され、会員ご本人の死亡という一大事に初めて立ち会う会長となりました。
夏以降は100名以上の会の分割議論が本部理事会で持ち上がり、次年度会長と共に新体制作りについて激論を重ねました。
自然界では世界的な異常気象で日本には記録的な猛暑と過去最多の台風が襲来。
その上、秋には新潟中越地震が発生し、年末にはスマトラ島沖地震発生と、日本も世界も激震した、世界中の人々の記憶に残る年となりました。
会執行部三役を四年間勤めた経験から、会長になっても何とかやっていけるだろうと思っておりましたが、次々と起こる予測不能な初体験の事態に翻弄され、多くの貴重な体験をさせて頂く事となりました。
この様な大きな組織では、たとえNo2の経験をした事があっても、トップとなると全く違った意思決定と責任を求められます。
やはり、登山と同じ様に頂上に昇らなくては見えない景色があるものだとつくづく痛感し、会長になって初めて先輩会長達の苦労を実感致しました。
この様な大変な一年を何とか勤め上げる事が出来たのは、浜口事務局長・山﨑筆頭副会長をはじめ三役の皆さん・理事の皆さん・会員の皆さんに支えて頂いたお蔭です。
本当に感謝申し上げると同時に、今後は会長経験者として会執行部のバックアップを全力でさせて頂きます。
今後ともよろしくお願い致します。
(2004年12月 設立10周年記念誌より)

11代目会長 本田 眞一(2005年度・2006年度)

12代目会長 藤野 隆司(2007年度・2008年度)

13代目会長 坂本 悟(2009年度・2010年度)

14代目会長 太田 和隆(2011年度・2012年度)

15代目会長 栗駒 和訓(2013年度・2014年度)

PAGETOP