はじめに

今回の講師は東京経営研究会の会員でもある株式会社マルチョウ 代表取締役の長谷川剛さんです。
長谷川講師は三代目であり、ご自身が体験した苛烈な事業承継についてお話して頂きました。

まず冒頭に事業承継について教えて頂きました。
事業承継の形は会社の状況によって様々ですが、主なものとしては以下のようなものがあります。

  • 親族内承継
  • 親族外の承継(従業員等)
  • 第三者を招聘
  • M&A

現在では、中小企業430万社のうち7%にあたる29万社が1年間で転廃業しており、驚くことにその4分の1にあたる7万社が後継者不在や事業承継の失敗で廃業しているとのことでした。

事業承継で引き継ぐものは一般的には以下の3つです。

  • 「人」 後継者、人材、教育
  • 「資産」株式、不動産、現預金、個人保障の引き継ぎ
  • 「経営」組織、経営理念、事業ノウハウ

ただ、今回長谷川講師が教えてくださるのは「事業承継ノウハウ」ではなく、理屈では解決できない事業承継する側とされる側の「感情」や「意識」、つまり『心の承継』についてのお話です。

この「心の承継」こそが最も重要であるということでした。

長谷川講師ご自身も、父親である現会長が5年という期限を設けて準備をされてきたのですが、親子ならではの「心の葛藤」がそれを大変難しいものにしてしまいました。

長谷川講師と日創研の出会いは6年前に遡ります。
当時38歳の長谷川講師は事業承継に向けて学び始めることにしたわけですが、その思いは父親である先代社長を乗り越えたい、それ以上に「ギャフンと言わせたい」そして一日でも早く社長になりたい、という「甘えた」思いからだったそうです。

しかし、そこからの6年間で学び、気づいたのはテクニックやノウハウではなく、「本当の親孝行」と「事業承継のあるべき姿」でした。

会社について

長谷川講師の会社は、墨田区両国で祖父の代から続く老舗のアパレル縫製メーカーです。
今年で創業63年を迎えられました。

両国と言えば「お相撲さんの街」「ちゃんこの街」を思い浮かべられるかもしれませんが、実は「横編み、丸編みの街」、もっと分かりやすく言えば「ニット、メリヤスの産地」、さらに分かりやすく言えば「セーター、カットソーの街」だということです。
株式会社マルチョウさんはその「カットソー」の分野において高級ブランドを中心に国産100%のOEM事業を展開されています。

栃木県、岩手県、福島県、山形県に自社工場を持ち、西は岐阜県、島根県の外注工場を使って年間約50万枚から60万枚ほどの商品を製造しています。

企業理念は「人を幸せにする最上のものづくり」というのは祖父の代から受け継がれてきたもので、これをさらに社内に浸透させるために先代社長が日創研の「理念塾」に参加され、当時可能思考研修受講中だった長谷川講師も一緒になって「経営理念」を作られました。

「私達は服づくりのすべての分野において創造性を持ち、お客様に幸せと感動を与え、関わる全ての人に感謝し、共に繁栄していきます。」

今アパレル業界は目まぐるしく変わる外部環境の影響で本当に服が売れない時代になっています。
1991年には15.3兆円あった市場規模も、2015年にはその3分の2、9.3兆円まで縮小しています。一方で供給量は増え続け、同じ期間で供給量は2倍に膨れ上がっています。
この結果、購入単価は半分になってしまいました。

作り手にとってもマーケットが縮小して多様化が進み、小ロット化がどんどん進んで、全国の産地の工場は存続の危機に立たされているところが少なくありません。
しかし実際には中国のコスト高だったり世界的な高級志向の影響で、いわゆる「国内回帰」がどんどん進んでいます。
日本製いわば「メイドインジャパン」が求められている事は間違いありません。

しかしながらこの20年間で生産拠点の海外シフトだったり、ファストファッションとの価格競争の末、産地の工場は衰退の一途を辿り、1990年代前半には50%あった自給率も今では3%を切ってしまっています。日本製を作りたくても作れないというのが現状です。

そんな中マルチョウさんでは外部環境に左右されない国内産地の発展、工場づくりに力を入れています。
日本の産地の工場は腕があっても後継者がいない、設備投資したくても資金がない、少子高齢化で人材を補強できない、そんな工場がたくさんあります。来年再来年には店をたたまなければならない、そんな工場がたくさんあります。

そこでマルチョウさんでは、MARUCHO-WORKSグループとして、産地の各工場との資本提携、設備投資、グループ化を進めて、産地の適材適所の工場と共に、永続発展していこうという取り組みをしています。
国内工場の産地の発展と技術の継承、これが私達の使命だと考え、日本の衣料品自給率をわずかでも上げたい、そんな思いで取り組まれています。

また、会社運営にはもう一つ切っても切り離せない問題があり、この業種は製造業故に非常に運転資金がかかるということでした。
多い時で月に1億から2億もの支払いがあります。
当然ながら銀行からの借り入れも半端ではなく、複数の銀行から多額の現金を借り入れていますから、どうしても中長期的な営業戦略とゆとりある財務体質というのが必要不可欠だということです。

そこでマルチョウさんでは四半期決算を導入し、3ヶ月に1度金融機関の皆さんをお呼びして、「決算報告検討会」というのを実施されています。
その甲斐あって中小企業庁の「中小会計要領 全国成功事例65社」にも選ばれました。

こういった思いだけの物づくりだけでは無く、右手に算盤を持って、透明性のある財務体質を持たないとこの事業は永続できない、難しい経営なのだということが、父が一番教えたかったことだと長谷川講師は振り返られていました。

そんな本社15名、グループ総数80名の「株式会社マルチョウ」は3年前の2014年10月に創業60周年を迎え、その節目の年長谷川講師は晴れて事業承継することができました。

しかし、そんな事業承継も辛く長い、壮絶な時間を必要としました。
何時終わるかわからない、そんな長い争いでした。

事業承継の幕開け

昭和47年2月24日に墨田区両国で長谷川家の長男として長谷川講師は誕生しました。
事業を営んでいたこともあり比較的裕福な家庭で長谷川講師は何不自由なく育ちました。

父である先代社長の直樹さんは近所でも有名な、「星一徹」のような、遊びに来た友達にも怒るとても怖い方だったそうで、長谷川講師はいつもビクビクしながら育ったということでした。

長谷川講師は小学1年生の時に、直樹さんがコーチを務める少年ラグビースクールに入れられます。
練習が終わって家に帰っても、家の前の広い公園で、友達が野球をやっている横でラグビーの猛特訓が始まります。
日が暮れるまでやらされて、本当に嫌でしょうがありませんでした。

食事のマナーにも厳しく、できていなければ箸が飛んでくる、ひどい時は別の部屋に隔離されたりもしました。

その頃自転車で崖を滑り降りるという遊びが流行っていた頃、ある時失敗して転んで腕を骨折してしまいました。
友達がすぐに父を呼んできてくれましたが、優しい言葉をかけてくれるだろうとの期待を裏切り、直樹さんからは「そんなもの怪我のうちに入らない」と言って折れた腕を上げさせられました。正に殴る蹴るは当り前の「昭和の父親」そのものだったということです。

長谷川講師は成長するにつれていつしか自然と父の考えとは逆のことをやりだすようになります。
よくある事業承継のケースとしては、幼い頃から「お前社長になるんだぞ」と言われて父親の手伝いをしながら事業承継していくと思いますが、長谷川家では真逆でした。

長谷川講師は「お前社長になれると思うなよ」と言われ続けて成長していきましたので、それならということでパイロットになることを夢見て高校から大学と理系コースに進学しました。
卒業後はパイロットの夢は諦め、でも一部上場の携帯電話の会社で設計開発の仕事という父とはまったく畑違いの仕事につきました。

長谷川講師は今自分の息子には「お前はお父さんと一緒に仕事をするんだよ、お父さんを助けてくれよ、お前は社長になるんだぞ、頼むぞ」と言っているそうです。
父のように「お前社長になれると思うなよ」などと厳しいことを言うことはできないそうです。

ところが就職をして2年、ここで転機が訪れます。

今から20年前のこと、当時はバブルが崩壊しお客様である紳士服大手の会社が次から次へと倒産し、マルチョウさんも多額の損失を抱えたりしました。
当時の直樹社長は直取引していた紳士服の会社を負債を抱える前に次から次へと切っていきました。
本当に辛かった時代だっただろうと長谷川講師は振返ります。

その頃のある日、長谷川講師は社会人になってから始めたゴルフを父に教えてもらおうと思って一緒に練習に行きました。

長谷川講師が打っている後ろから指導をしてくれていたのですが、突然こう切り出してきました。「そろそろ会社に来ないか」ここで言うのかと思いつつも、幼い頃から待っていた言葉でもあり、驚きながらも運命に任せて父の会社に入社することになりました。

入社すると、家族以上に社員に厳しい父の姿、正に「ワンマン社長」の姿に衝撃を受けます。
そして当然今まで以上に長谷川講師に対して厳しくなります。
超がつくほどの「朝令暮改」、「失敗は成功のもと」などという言葉は存在しません。

失敗すれば「誰がやった」とまずは犯人探し、自分で責任を取れというスタイルなので人の入れ替わりは激しく、早い時点で長谷川講師は営業のトップになっていました。
社員が辞める度に「社員が辞めたのはお前のせいだ」と言われますが、長谷川講師は反発して言います「社長のせいだ、会社のせいだ」と。

顔合わせれば怒号が飛び交う日々、毎日のように対立し、激しい親子喧嘩が繰り広げられていました。
「反対意見があったほうがいいのだ」とお互いが納得して長い日々を過ごしてきました。

しかし、社員にとってはこれほど大変なことはありません。
司令塔が2つあり、怒号が飛び交い、不安で仕方がなかったと思います。

この対立が19年間続きました。
本当に不幸な時間でした。

父に会いたくないので実家にはほとんど帰りませんでしたから、母親にも悪いことをしましたと長谷川講師は振返ります。

何時になったら認めてくれるのか、何時になったら褒めてくれるのか、そんな気持ちを抱きつつ、自分の実力がつくにつれて気持ちは徐々に変わっていきました。
「父を引きずり下ろしてしまおう」社員のためにも会社のためにもこれが一番良いのだとそう思ってしまいました。

当時長谷川講師は経営のことは全く学んでいませんでしたから、心の勉強、経営者の器を磨く勉強会など行ったこともありませんでした。

長谷川講師は結果を出して父に引導を叩きつけてやろう、と考え我武者羅に仕事をしていました。
皮肉なことにその反骨精神が業績を上げていくことになりました。

でも、どんなに業績を上げても直樹社長からは言われ続けます「お前は社長の器ではない、お前が成長しなければ弟に、弟が駄目なら第三者に社長の座を譲る、身内が社長にならなくても良い、お前は独立でも何でもしろ」。

倫理に救われる

そんな中、長谷川講師は何時来るかわからない事業承継に向けて2010年にいよいよ日創研で学び始めました。
学べば学ぶほど自分の未熟さ、無知に気づき、スキルやテクニックばかりに目が向いて学んでいきます。
当然のように学んだことを社員に「押し付け」ました。

自分が「変わろう」という気はまったくなく、人をどうコントロールしようかということばかり考えて学んでいました。
いつしか長谷川講師は「頭でっかち」になってしまい、社員や父が望む姿とは真逆の方向に進んでいました。

そして5年前の25TTで学んだ時、修了して会社に戻った時には完全に「天狗」になってしまって、社員を罵倒し、理想ばかりが高くなってしまっていました。

そしてついに今から4年半ほど前、TT卒業の3ヶ月後にある事件が起きました。
それはTT卒業した翌年の2月に行われた東京経営研究会の2月例会の最中だったそうです。

当時副社長だった長谷川講師に対して社員さんが「こんな副社長にはついていけない」と社長である父直樹さんに内部通告があったのです。
長谷川講師は弟に確認をしましたが、まだ入社5年の弟も同意見でした。

振り返ると誰も長谷川講師についてきていなかったのです。
信じていた弟でさえも「俺だって辛い、でももう皆の反発を抑えきれない、ついていけない」正に長谷川講師は「裸の王様」でした。

直樹社長からはこれまで何度も「辞めろ」と言われてきましたが、この時ばかりは本気で会社を辞めろと言われました。
しかし、この時は副社長から専務に降格することで事なきを得ました。

でも、長谷川講師はそこから「真っ暗なトンネル」に入っていきました。
何のために仕事をしてきたのか、何のために生きてきたのかわからなくなってしまったのです。事業承継は諦めよう、弟に任せよう、もう終わりにしよう、長谷川講師は半分鬱状態で過ごすことになります。

同時に「頭でっかち」になっていた長谷川講師に対して研修参加を禁止されていました。
そのような状態で、もがきながら色んなことをやってみるのですがどうしてもうまくいかない。

思い悩んでいる中、「倫理法人会」のことを思い出し、早朝なら誰にも迷惑をかけず、研修であることもバレずに学べると考え、すがるような思いでこの毎週土曜日のセミナーに通いました。

当時倫理法人会に入会していましたが、目的はあくまで社長になるためのスキルアップのためで、あまり真面目に取り組んではいなかったのです。

それからの倫理の学びは正にスポンジのように長谷川講師の心に染み込んでいきました。
これまでの人生は勝手に自分中心に回っていると考え、すべて自分が正しいと思って生きてきた、それが間違いであることに気づいた時に、正しい物の見方や考えがわからなくなってしまっていました。

社員や家族に掛ける言葉が見つかりません。
色んな本、色々な成功事例や偉人の本を読んで真似してみますが、自分のものにならず表面的で誰にも伝わりませんでした。
しかし、倫理法人会で出会った「万人幸福の栞」だけは違いました。

守れば誰もが幸福になり、外れれば不幸になるという教えが、倫理の「実践」を伴うことで驚くほど自分に染み込んでいきました。

そこで長谷川講師は3つの実践を誓います。

  1. 「ハイ」の実践
  2. 即行即止
  3. どんな責心も一度受け入れる

「ハイ」の実践とは、どんな頼まれごとや依頼も「はい」の一言で受けて即行動すること。
これは予想外の仕事に直結し、次から次へと出てくる新たな問題課題に即取り組むことで新しい道が次から次へと開けていきました。
「はい」の一言で即行動しますから相手の信頼も格段に上がっていきます。

また、社員の失敗に対しても、一度出かかった怒りをグッと抑えて責心を受け入れます。
この失敗を生み出したのは自分のせいだ、会社の仕組みのせいだ、失敗の根本を改善していく努力を共にしていきました。

怒りがこみ上げてくると「お前は何のために学んでいるか、何のために日創研や倫理を学んでいるんだ」と自分に問いかけることで自然と怒りが収まってきます。
最近は会社でもまったく怒らなくなり、同時に怒るようなことが周りに起きなくなってきたそうです。

そして長谷川講師は一番にして最大の実践を行うことにしました。
それは父である直樹社長に対する反発を一切やめるということです。

すべては「はいの実践」で受け入れ、頼まれごともすぐに行動しました。
父の思いを受け入れて尊重し、理解するように心がけました。

例外は一切ありません。
当然ですが日々行われていた争いの光景は一切なくなりました。
最初は辛かったし、「生きた屍」のようだったと長谷川講師は振返ります。

しかし、やっているとだんだんと直樹社長の言っていることが分かり始めたそうです。
経営者という同じ立場に立つことで、なぜあの時怒られていたのか、なぜあの時反対されていたのか、一つ一つの反発が雪解けを始めてきました。

そして間もなくするとさらに驚くことが起こり始めました。
今までどんなにわからせよう、歩み寄らせようと思っても無理だった直樹社長が、長谷川講師に歩み寄ってくれる、尊重してくれるようになったそうです。

そして直樹社長は毎日のように長谷川講師に言います「お前変わったな」。
長谷川講師にはそんなつもりはまったくなく、ただ毎日ひたすら実践を繰り返してきただけだったそうです。

そして直樹社長はある時こうも言いました「お前には今まで本当に厳しく育ててきたけど、辛かっただろう、本当に悪いことしたな」。
この時は隣りにいた弟と顔を見合わせて「どこか体の具合が悪いのではないか」と心配したそうです。

またある時は「お前なぜそんな変わったんだ、社員も弟も皆お前が変わったって言っている。お前が変わったことで社内が明るくなってきた」と言ってくれました。

長谷川講師は今まで色んなテクニックで社員を変えよう変えようとしてきました。
しかし変わるどころか逆に離れてしまった。

それがいつの間にか皆が変わってくれていた、長谷川講師のことを認めてくれていたのです。
正に、自分が変われば相手や周りが変わるということを実感した瞬間でした。

そして直樹社長は長谷川講師がこれまで聴きたかった一言をとうとう口にする時が来ました。

「お前、半年後から社長になれ」

実践を始めてあっという間の事業承継でした。
直樹社長は長谷川講師の成長を待っていたのです。

そして長谷川講師はもう一つ大きなことに気づきます。
それは、長谷川講師に代を譲る基準は直樹社長の判断ではなく、社員や弟が認めた時が「その時」だったのです。

事業承継も決まり、実践による変化は会社の業績を一気に上昇させることなりました。
今まで最大の敵だった父が最大にして最強の味方になったのです。

社員に対して怒号が飛び交うこともなく、指示命令系統も一つに集約されますから会社はスムーズに回り始めました。
また、ミスやクレームに対して怒鳴り倒していた長谷川講師ですが、トラブルやミス、クレームの失敗事例だけを話し合う会議を週に一回社員全員でやるようになりました。

また、権限委譲もして社員さんに任せるようになりました。
怒りも口出しもせず、やることは応援することと信じることだけです。
結果的にミスやクレームも減少し、売り上げも社員さんの実力もどんどん上がっていきました。

お陰で前期の決済では売り上げ、利益ともに過去最高を計上することができました。

事業承継の第一幕はこのようにして幕を閉じましたが、本当の事業承継はまだ終わりではありません。
それは「株式」のことであり、大株主である直樹会長には長谷川講師を解任する権限を持っています。

社長を交代する際に先代から言われたことは2つありました。

  • 2年間で結果を出せなかったら社長交代
  • 公私混同したら社長交代

長谷川講師はこの2つを守るために必死に努力し、2年間で増収増益を成し遂げられました。

長谷川講師はこの必死に努力した2年間で問題に当たるたびに考えたことは「父ならどうしただろう」ということでした。
自分のことは置いておき、「父の思い」を感じるように務めました。

直樹会長からは「まだまだ株は渡さない」と言われていましたが、その2年間の努力の結果、昨年末に突然「株を渡しても良い、お前が大株主になれ」と告げられます。

今年の1月に晴れて長谷川講師は株式会社マルチョウ、株式会社マルチョウワークスの筆頭株主になり、入社20年にしてようやく長かった事業承継の幕は完全に閉じられました。

親孝行と恩返し

父である直樹社長が引退して早2年が経ちました。

今は長野でこれまでできなかったこと、たくさんやられているそうです。
でもまだ仕事のくせがぬけないそうで、毎日のように図書館に通い、母校の明治大学でセミナーを二週間に一回受けたりもされています。

先日は「シニア大学」に入られたそうで、その活動が信州新聞に自分の大きな顔写真とともに掲載されたので、喜んでその新聞を会社に何部も送ってこられたそうです。
それを見た時に、あの時諦めずに事業承継できて本当に良かったと長谷川講師は思いました。

任されて気づくことは、父の存在感。
これまではいつも父がいた。

今は毎日が不安との戦いだということです。
ですから困ったことがあるとすぐに父に連絡するということでした。

昔はあんなに聴きたくなかった父のアドバイスが今は温かい、ありがたい。
そしてあんなに恨んでいた過去の出来事が不思議な事に今は何も出てこないそうです。

何を怒っていたのか、何を恨んでいたのかわからなくなってしまいました。
思い出すこともありますが、でもなぜ腹を立てていたのかが思い出せない。

長谷川講師は42歳になって初めて気づきました、全ては勘違いだったのだと。
すべて親心、愛情だったのだと。

そして同時に猛烈な罪悪感に襲われました。
急いで恩返ししなければと考えました。

長谷川講師はある時倫理法人会の研修で先生に質問しました「親孝行とは何ですか」
先生は「親のなって欲しい姿になることだよ」と教えてくれました。

親の望むことは会社の伝統と父の思いを受け継ぐことでした。

マルチョウという会社は一つしか無い、新しいマルチョウなんていらない。
いくら土地や財産や社員さんや建物を引き継いだとしても、思いや志を理解しないと何の意味もない。
もう一つの望みは、親子の愛和、親子の幸せな生活だったのです。

これに気づくことが出来て本当に良かったと長谷川講師は言います。
日創研に、倫理法人会に出会えて本当に良かったと。

長谷川講師は今回の例会での講演やこれまでの講話でこの体験談を話すうちに、一つの疑問が湧いてきたそうです。
それは、過去の親との関係は本当に辛いことばかりだったのだろうか、父を恐れてばかりだったのだろうか、と。

長谷川講師は実家に戻り、古いアルバムを引っ張り出して幼かった頃の写真を見てみました。
そこには父に抱きかかえられて嬉しそうに笑う写真、親子で一緒に楽しく遊んでいる写真がたくさん出てきました。
厳しくて嫌な思い出しか無かったラグビーの写真も、一生懸命頑張る自分が写っていました。
長谷川講師は自分で楽しい思い出を勝手に封印してしまっていたのです。

長谷川講師はこれから全力で親孝行していくと同時に、同じような境遇の方、事業承継がうまくいかない方に対して、ご自身の体験談をお話していくことを決めています。

親子で対立したままの方、さらに気がついても親孝行できないまま死別してしまう方もいます。
そんな方々に「心の承継」について伝えていこうと考えられています。

「すべては勘違い」なんだと。

継がせる側の思い(代表質問)

事業承継を無事に終えることができた長谷川講師の講演の次は、継がせる側、直樹会長のその思いや考えを東京経営研究会の小林会長が代表質問する形でお聴きしました。

【小林会長】
まず初めに、それまでは「お前社長になれると思うなよ」と言っていた剛さんに対して、社会人2年目の時に「そろそろ会社に来ないか」と誘われたのはどういうお気持ちからだったのでしょうか?

【直樹会長】
学生の頃の行動を見ている限りでは事業承継は難しいと考えていました。彼も自分で会社を探して仕事を始めたわけですが、どうもあまり身が入っていないように見えました。私も彼と色々と話をしてきましたが、どこかで継いでもらいたいという気持ちがあったと思います。
ですから、それを口にしたのが何時だったかは覚えていませんが、その言葉が出てきたのだと思います。

【小林会長】
タイミングを図っていたわけではなかった、ということですね。

【直樹会長】
そうですね、私もまだまだ元気でしたから(笑)。

【小林会長】
剛さんが入社されてからは毎日対立を繰り返していたということですが、剛さんは持ち前の反骨精神から対立する反面業績は上がっていったということでした。それでも「社長の器ではない」ということでお認めにならなかったということですが、なぜそこまで頑なにお認めにならなかったのでしょうか?

【直樹会長】
私が一番大事にしているのはその人の「人格」であり、それをいつも見ていました。それを計る尺度として「社員の目」「銀行の目」そしてそれを取り巻く「全体の目」というものを常に見ていました。いくら業績を上げたからと言っても、たまたま営業力があった、運が良かった、世の中が景気が良く会社が上向いていた時にたまたま結果が出たのだろう、ぐらいにしか思っていませんでした。ですから私は数字結果ではなく、「社員の目」「銀行の目」その他の「全体の目」でしか見ていませんでした。

【小林会長】
ちょうど5年前の同じこの2月例会の時に起きた事件、内部通告によって剛さんは当時副社長から専務へと降格されたということですが、当時の心境は如何だったのでしょうか?

【直樹会長】
あれは今でもありありと覚えています。長年勤務してきた社員が私の部屋に来まして、「今の副社長にはついていけない」と言ってきました。驚いて一緒に入社していた次男にも聴きましたが、ハッキリとは言いませんが同じような意見を持っていました。そこそこ仕事もできたし営業力もついていましたから、対外的なことも考慮して「副社長」という肩書を与え、また彼自身もその肩書が「抑止力」にもなるだろうと考えていました。ところがそれが逆の効果になり「走りに走って」しまった。そこで内部からの問題が発生しましたから、私はその時「この人はいらない」とも考えましたが、もう一度チャンスとして「降格人事」を行い、どのように行動が変わるかを見てみようと考えました。降格人事を発表すると社内外で驚きと動揺が起こりましたが、中でもある銀行の支店長から「よく思い切りましたね」と言われ、降格人事を評価してくれたのかどうかはわかりませんが、そのことについてわざわざ言ってきたことには驚きました。とにかく社内の下から「突き上げ」があったということは、会社崩壊の危機的状況にあったわけですから、それを回避する行動をしたまでなんです。

【小林会長】
剛さんはその降格人事の後に学ばれて「3つの実践」を約束されました。そしてこれを実践することで剛さんが劇的に変化し、会社も大きく変化、直樹会長もそれまでと違って剛さんの意見を尊重するなど「歩み寄り」が見られるようになったということですが、どのように感じていらっしゃいましたか?

【直樹会長】
降格後の自分の立ち位置ということについては相当悩み、恐らく「会社を辞めたい」という気持ちもあったと思います。でも、仕事も頑張りだし、数字も上がりだし、周りの雰囲気も変わってきた。そうなってくると私もガミガミ言うこともありませんし、たまに会社内で顔を合わせると「よく頑張ったな」といった言葉が自然に出てきたんです。彼が壁を越えたことによって、私の方もこれまでの「カミナリオヤジ」よりも「褒め上手」になったほうが良いのではないかと思うようになっていった、私の方も変わっていったのだと思います。

【小林会長】
剛さんを褒めることによって本人も社内も加速度的に良くなっていったということでしょうか?

【直樹会長】
その通りです。社員の心も私の心も彼の心も、みんな同じ一つの方向ベクトルを向くようになりました。同じベクトルに向くというのは物凄く大きな力を生み出します。1足す1が2ではなく、3にも4にもなる、そのようなことになっていくことが感じられました。

【小林会長】
その後社長交代を告げられ、剛さん曰く交代の基準は「弟や社員さんに認めた時」だったということでしたが、直樹会長のほうで実際に交代の基準や決め手はあったのでしょうか?

【直樹会長】
私は彼には黙って「5年で事業承継する」ということを決めて着々と準備はしてきました。ある程度準備ができた段階で、彼も変わり彼自身の気持ちも良い方向に進みましたから、今のこの機会を逃すとまたマイナスになるかもしれないと考えました。彼からすると突然のように感じたかもしれませんが、私としては5年前から準備をして、その「タイミング」を見計らっていたわけです。私は交代後は経営権を持たないと考えていましたから、代表権も取締役も外してただの「会長」としました。自宅が軽井沢で距離もあったので、その後はそれほど会社に行く機会もなくなり、皆さんの責任でやっていってください、というかたちにしました。

この5年の計画については銀行にも打診はしていて、特に「個人保証」については随分と話し合いました。私の与信がある限りはいけないと思っていますから、私の個人保証はまず外してもらうように言いました。その時に私は「経営権はいりません」と言いました。次の借り入れは新社長に個人保証を取ってくれ、その代わり私を抹消してもらうように頼みました。たまたまその頃に金融庁から「個人保証を取らない」やり方をするようお達しがありましたから、お陰で各銀行は私の個人保証を外して新社長に個人保証をつけていきました。ですから、最近の銀行に対してはハッキリものを言って、キチンとしたやり方をしていけば、ある程度は個人保証も外してくれます。

【小林会長】
剛社長は任されることによってこれまでの「父親の存在感」に気づいたということでしたが、直樹会長が剛社長に任せる上で気づいたことはございますか?

【直樹会長】
私は47年間二代目としてこのマルチョウという会社を築き、30年間社長という職務をやって来ただけに、それは会社のことが気になります。かと言って、口出しをするとマイナスになる。ですからすべて「自己責任だぞ」ということは繰り返し言いました。社長は全部の責任を取るんだと。私は辞めてから最初の1年目は10日に一度は会社に来ていましたが、2年目には私の席が無くなっていました。でも、それは良いことだと思いました。逆にそれは自信の表れと受け止めました。

【小林会長】
事業承継の際に伝えられた2つの条件「2年で結果が残せなければ社長交代」「公私混同したら社長交代」を受けて剛社長は努力して結果を残され、先月には株式の承継も無事に修終了しました。直樹会長が先代から承継する際に言われた言葉や交わした約束がありましたら教えてください。

【直樹会長】
私も父親とは今と同じように相当すったもんだの大喧嘩をやりました(笑)。その時に言われたのは「不動産には手を出すな」「株は絶対にやるな」「銀行との付き合いは一定の距離を保つ」ということでした。私が交代したのはバブル景気の少し前の頃でしたが、その当時は銀行がそういうことを勧めてきました。その結果失敗した会社がたくさんありました。当時は周りが本業と違うところで儲けていましたから少し気後れはしましたが、それは違うだろうと考えて一切手を出さなかったから結果的に何の損害もありませんでした。先代から言われたことがこの時に生きましたから、今でも社長にはこの3つのことを伝えています。

【小林会長】
現在事業承継の問題を抱えられている方に対して、「継ぐ側」「継がせる側」へのアドバイスを頂けますでしょうか。

【直樹会長】
会社は公のものですから継続しなければいけません。継続のためにはトップにそれなりの能力が必要です。このトップだからこそ、このトップについていきたい、働く人たちにそう思わせる能力を持ち姿勢を示していかなければいけません。つまり能力と「心」を持った人をトップにしなければいけませんし、私も彼には言ってきましたし、さらに彼自身も日創研や倫理法人会で学んだことでそのように変われたのだということを今日確信しました。

【小林会長】
最後に本日の剛社長の講演の感想をお聞かせ下さい。

【直樹会長】
あの”バカ息子”がどうしてこんなに変わったのかな、というただ一言です(笑)。

ただ、現在も一通過点であり、これから本当に自分の力が出せるのか、どのような苦しみがあるのか、それを自分で判断していかなければいけません。後は周りの皆様のお力とアドバイスと忌憚のない意見を言って頂けることが彼の最大の力になると思いますので、宜しくお願いします。

長谷川講師、そして直樹会長には貴重なお話をして頂き、本当にありがとうございました。

長谷川講師からは、ご自身の講演の最後に長く言えなかった感謝の言葉を、これまで口に出来なかった「お父さん」という呼び名で述べられた時には会場全体が深い共感と感動に包まれました。

また、講演を聞き終えた直樹会長も本当に嬉しそうに感謝の言葉を述べられ、この「親子の愛和」によって「心の承継」ができたということを実感できました。

最後に例会には参加できなかったお母様から長谷川講師への手紙も読み上げられ、参加者全員が温かい気持ちになることができました。

本当にありがとうございました。

また、ご参加頂いた会員の皆さまにも改めて感謝致します。