2023年度最初であり、淺本寧枝会長になって初めての例会となる今回は、千葉県銚子のローカル鉄道「銚電」の代表取締役 竹本勝紀さんをお招きしお話を伺いました。

生き残りを賭けて

銚子電気鉄道株式会社は1923年7月に誕生(創業時は銚子鉄道)し、今年で100年を迎えることになりました。走行区間はJR総武本線の終着である銚子駅から先の外川駅までの10駅6.4kmというとても短い路線です。走っている車両も60年経過した古い電車で、最高時速40kmでゆっくり走ることから銚電内では「シニアモーターカー」と呼ばれているとかいないとか。
メインである車両をみてもわかるように銚電の経営はまさに薄氷を踏むがごとく、竹本講師曰く「電車屋なのに”自転車操業”」だということです。

もともと地域の足としての私営鉄道で、戦後復興の中で株式会社化しますが、利用者の減少から1960年には同地域を走るバス会社の系列に入り、鉄道とバスを運行する京成グループの傘下に入りました。
この頃すでに赤字経営のため存続が困難とされ、銚子市だけでなく千葉県や国からの助成を受けて運行を続けていました。1976年からは後に主力となる食品製造販売の副業を始め、駅内にてたい焼きを製造販売していました。

それでも厳しい経営が続いたことから、1990年には千葉交通が千葉県内の建設会社に経営権を譲渡、その建設会社が設立した会社「銚電恒産」の子会社になりました。この建設会社は銚電を「観光路線化」する計画を立て、一部の駅の駅舎を海外風、例えば犬吠駅をポルトガル風に風車にするなど大胆なテコ入れをしました。
そんな中、1995年に販売を開始した「ぬれ煎餅」がテレビ番組で取り上げられたことからまさに一大ブームとなり、鉄道事業売上の2倍という大ヒットとなりました。

本音で伝える

このぬれ煎餅の大ヒットで経営が上向き始めた頃、バブル景気が崩壊したことで親会社である建設会社の経営が急速に傾き、1998年には多額の負債を抱えて自己破産してしまいました。
さらに、この時点ではまだ千葉県と銚子市が銚電を支援していましたが、5年後の2003年に建設会社の破産後も銚電の経営をしていた当時の社長による横領が発覚、公的補助金は停止された上にその社長の債務約1億円を弁済しなければならなくなりました。急速に運転資金が不足、労働組合からも借り入れるという危機的状況に陥りました。

この横領事件の最中、頼まれて銚電の顧問税理士となったのが現在の社長である竹本講師です。竹本講師はデタラメな財務諸表を直すために会計ソフトを導入したり、税負担軽減のため1億円未満への減資といった改革に着手しました。
それでも間に合わず、竹本講師も現場に出てぬれ煎餅を売り歩きました。多い時には100枚以上売れたこともありましたが焼け石に水でした。そこでダメ元で始めたのがネット通販。竹本講師が家族総出で通販サイトを作り、全国に向けて商品を販売することにしました。

しかし鉄道というのは装置産業であり、その維持管理に多額の費用がかかります。鉄道車両の保安検査を通すために問題のある設備や車両を修理しなければならず、期日までにそれができなければ電車は走れなくなります。その期日が迫る中、当時の経理担当者によるすべてをさらけ出した投稿が奇跡を生み出しました。

「ぬれ煎餅買ってください。電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです。」

諦めずに動く

存続がかかっているというストレートな理由から商品を買って欲しいというその文章は、当時の電子掲示板や個人ブロガーの間で話題となり、結果的にマスコミへのPRとなったことで支援のための注文が全国から殺到しました。注文をさばききれず、一時は受付を止めなければいけなくなるほど。この売上によって修理代の費用が工面でき無事に保安検査をパス、銚電は存続することができました。
このエピソードは有名で色々なところで語られていますが、この銚電のぬれ煎餅の生みの親でもある当時の専務取締役 綿谷岩雄さんはまさに銚電を救った張本人だと竹本講師は言います。

ぬれ煎餅など物販事業を進めたのは当時経理課長だった綿谷さんで、銚電を失くしたくないという一心からとにかく利益になることは何でもやろうという姿勢でした。
横領事件発生後は代表権の無い専務として走り回り、ダメ元で飛び込んだ公庫から融資の話を得ることができました。ただ、条件として交代した当時の社長の自宅を担保にするなら貸すというもの。ところが当時のその社長の自宅が借家であったため、専務の綿谷さんの自宅を担保にすることにしました。
専務取締役といっても代表権の無い綿谷さんにとって何の保証もないその決断は、銚電を愛するが故のものであり、銚電の救い主だと今でも感謝していると竹本講師は言います。綿谷さんは昭和23年に入社して銚電一筋70年、4年前に88歳の生涯を閉じられたということです。

この竹本講師曰く「第2次ぬれ煎餅ブーム」によって経営は黒字化、さらに前社長の債務も返済することができ、老朽化した車両の更新もできたことで銚電は息を吹き返しました。
ところが、そんな矢先、未曾有の危機が銚電を襲いました。
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、銚電に直接の被害こそ無かったのですが、原発事故による風評被害によって銚子港が打撃を受け、銚電の利用客も激減してしまいました。
竹本講師はこの大変な時に社長になられましたが、この危機を乗り越えるために行ったのが各都道府県に設置されている「中小企業活性化協議会」への支援の要請、事業計画を基に横領事件後凍結されていた補助の復活をお願いでした。その結果、国と千葉県、銚子市による協調補助が決まり今後10年に亘って補助してもらえることになりました。

地域の思い

ところが、補助が決まった矢先に脱線という大変な事故が起きてしまい、線路は曲がってしまって、現場に駆けつけた社員は廃線を覚悟しました。それでも半月後には運行は再開されましたが、運行本数は以前の6割にとどまり、乗客も以前の親会社であるバスに奪われてしまいました。
売上は大幅に減少し、3期連続で多額の赤字を計上してしまいました。
ただ、そんな中銚電を勇気づけてくれたのは普段通学で利用していた地元の高校生でした。彼らはこれからも銚電を走らせたいという思いから、脱線で動かなくなった車両の修理費をクラウドファンディングで集めてくれました。当時はまだそれほど一般的ではなかったクラウドファンディングで目標額300万円のところ600万円もの寄付を集めたのです。

その寄付金もあって脱線した車両も修理されて1年3ヶ月後に無事本線に復帰を果たしました。
車両が復帰した時(2015年4月4日)感謝を込めて次のようなアナウンスがされました。

「本日は、ご乗車いただき誠にありがとうございます。1年と3ヶ月、448日ぶりの本線復帰を心より嬉しく思い、感謝の気持で一杯です。事故当日の平成26年1月11日を思い出すと、上り線路が下り線路の方まで押され『これはもうだめだ、廃線だ』、これから自分はどうしたらよいのか…と考える毎日でした。数日後、お客様から『電車が走っていないと寂しいね。毎日当たり前のように走っていたけど、銚子電鉄がないと困る。今までありがとうね。私たちも運転再開まで駅の掃除をして待っているからね』の温かいお言葉をいただいたのを覚えております。地域鉄道の最大の使命は、地域貢献です。皆様から『銚子電鉄がこの街にあってよかった。銚電ありがとう』そう言われる会社を目指してまいります。今後ともお力添えのほど、何卒よろしくお願い申し上げます。本日は、ご乗車いただき誠にありがとうございます」

この出来事を通して竹本講師が改めて肝に銘じたのが、「地元住民、なかんずく交通弱者といわれる子供やお年寄りの足」としての使命を果たしていくということでした。
さらに、鉄道は地域の重要な社会インフラであり、鉄道のない街は寂れ、街が衰退すれば鉄道も消えてしまうという表裏一体の関係にある。だからこそ鉄道会社は地域と共に生き残らなければならない、銚電は銚子観光のシンボルとしての存続意義があるということでした。

ありがとうの向きを変える

ここから銚電は「乗って楽しい日本一のエンタメ鉄道を目指す」こととし、”銚電ブランド”に磨きをかけることで、銚電が多くの観光客を銚子に呼び込む、という地域経済のハブの役割を果たそうという取り組みが始まりました。
短い乗車時間を逆手に取り、行って帰ってくるまで途中下車禁止の”動くアトラクション”にしようという「電車お化け屋敷」を始め、銚電の駅名に愛称をつけるその命名権(ネーミングライツ)、さらに車両や駅舎をイルミネーションで飾る『イルミネーション電車」など、電車とその設備をプロモーションツールにした取り組みはいずれも好評で、これにより財務状況を黒字に転じることができました。これ以降「まずい棒」などの物品販売やソーシャルゲームとのコラボ企画といった様々なアイデアで売上を作りつつ銚子電鉄をPRしています。

現在銚電では「ありがとうの向きを変えるプロジェクト」に取り組んでいると竹本講師は言います。
これまでは、地元の利用客をはじめとする地域の方々の支援でここまで生き延びてきました。つまりありがとうの向きは銚電から支援者へ向かっていましたが、これからは銚電が地域の活性化のために働くことで、地域の方々から「ありがとう銚子電鉄」と言ってもらえる会社になろうというものです。
一つには地域の特産品を銚電をPR媒体にして多くの方に知ってもらおうというもの。もう一つは海外の鉄道会社と組むことで銚子にインバウンドを取り込む、つまり銚電が地域旅行会社となって国内だけでなく海外のお客さんも集めようというものです。

これらの取り組みの基となっていることについて最後に竹本講師が教えてくれました。
銚電は公共交通機関ではありますが、私企業であるために収益の確保は至上命題であるということ。いわゆる「第3セクター」と呼ばれる半官半民の会社(主に元国鉄の地方路線)ではなく一中小企業であるので、鉄道を走らせるための資金繰りから利益を生み出し社員を養っていくまでを自力でやっていかなければならないということ。その一方で、私企業であるけれども公共性の高い事業なので、誰のもの(経営者)でも誰のため(社員)のものでもなく、必要とする人がいる限り走り続けることが求められる存在であるということ。
一度失われた鉄路は二度と戻ってこない、会社が無くなればキャベツ畑に鉄道が走る姿や夕暮れに佇む駅舎の風景は完全に失われてしまいます。それは地域の足が失われる以上の損失を地域に与えてしまいかねない。自分たちにはそれだけの存在意義があると同時に地域と共に生きるという使命のもと、どんな危機にも、どんなことにも挑戦し続けるということでした。

竹本勝紀社長、本日は貴重なお話をありがとうございました。