12月16日、12月とは思えないほど暖かな日に、今年最後の例会が渋谷で開催されました。

1 2 3 4

今回の講師は西東京経営研究会の前会長の浜口信介さん(株式会社北斗プラン)です。

浜口講師は1960年 高知県四万十町の農家の長男として誕生します。

5高校3年生の10月、進路を決める時に一念発起して東京の学校に進むことを決め、それまで色々やんちゃなことをして迷惑をかけてきたご両親や先生に驚かれますが、東京への進学を後押ししてもらいます。
浜口講師は、この頃からとても人との出会いに恵まれていた、と述懐されます。

東京の学校で2年間勉強をして土木設計会社に就職をされますが、就職して3日目には独立を決意されます。
その会社で仕事を覚えるために9年間しっかりと働かれるのですが、そこでも人との出会いに恵まれます。
それは、27歳の時に結核を患い、奥様と幼い子どもを抱えて田舎に帰るしかないということになってしまいました。
しかし、会社の社長にそのことを伝えると「諦めるな」と言われて、東京中の病院を探して入院させ、何とか生活を守ってもらいました。

そして、その後29歳の時に念願だった独立を決める時にも、貯金はわずか30万円しかなかったにも関わらず、奥様に背中を押してもらい独立されます。

独立をした時には、役所に独立の挨拶をしに行った際に大手の測量会社の社長を紹介されます。
役所からその会社に仕事を出しているが、人に困っているから手伝ってあげて欲しいというのです。しかし、その会社には過去に少なからず因縁があり、取引することに抵抗があったため、かなり無茶な条件を出します。
極めつけは会った翌日に、仕事をするにあたって必要な大型のコピー機やパソコン、電話など総額830万円ものリース契約の連帯保証人になって欲しいというお願いでした。

前日に初めて会った浜口講師に対してその社長はそれを承諾し、「友人」として連帯保証人になってくれました。
このことで浜口講師はその社長の人間力に触れ、何が何でもこの人に迷惑をかけてはならないと決意し、その後10年間取引をして、業績を伸ばしていくことができました。

業績が伸び、人が増え、浜口講師が第一線から少し離れると、今度は会社内で色々な問題が起こり始めました。
元々は公共下水工事の設計が専門で、最初に取引した元請け一社でやってこられたのですが、業界の景気が下降していくとそのまま一緒に業績が下がってしまいます。
一社のみの取引に限界を感じられ、あらゆる分野、道路設計や公園設計、さらに元請けにまで手を出されますが、会社はドンドン膨張するばかりで、業績が上向くことはありませんでした。

人も増え、部署も多岐にわたりますが、業績が上がらないので会社内は殺伐とした空気が流れ、浜口講師もそんな会社に苦痛を感じてしまい、社員さんとの関わりを避けていたということです。
混乱は日を追う毎に激しさを増し、当時公共事業だけでなく民間事業にも手を出していたため、会社内で分裂騒ぎが起き、民間事業部の社員さんが取引先を持って全員辞めていきました。

このことで売上が半減、さらにリーマン・ショック後の不景気から仕事もさらに減少し、ついに給料の支給が遅れるかもしれないという事態にまで陥ります。
このことで会社内は一気にざわつき、労働問題に発展、浜口講師も労働基準監督署に呼び出され、挙句の果てに裁判にまでなります。
この時にさらに7名の社員さんが会社を去り、24名いた社員さんは5名だけになってしまいました。

でも、まだ諦めていたわけではなく、むしろ西東京の各自治体の公共事業の実績があり、当時の東京都知事が「東京都の水道の耐震化を図る」という発言に対して、下水の設計技術を元にこの水道の耐震化の設計の準備を始めます。
ちょうどこの頃に浜口講師の右腕となる社員さんが入られ、これからはこの東京都の水道事業で行くと決めて、業績も徐々に盛り返してきていました。

6ところが、そんな会社が息を吹き返してきた時、浜口講師は突然の大病に襲われます。
その年の正月をご実家で過ごそうと高知に帰られた際に突然の激しい胸の痛みに襲われ、急遽病院で検査を受けたところ「大動脈解離」という大変危険な病気でした。
緊急入院をし、そこから激しい痛みに耐えながらの闘病生活が始まりましたが、そんな辛い中だからこそ色々なことに気付かされたと浜口講師はおっしゃいます。

家族や遠いところからお見舞いに駆けつけてくれる経営研究会や研修仲間の愛情、そして世話をしてくれた看護師さんからの愛情やその仕事ぶり、そしてお見舞いで持ってきてもらったたくさんの花からも勇気づけられます。
大変ではあったけれども、この入院の時の経験はとても多くの学びや気づきが得られた宝物だとおっしゃっていました。
そして、このご自身が一番苦しんでいる時に、救いの手を差し伸べてどん底から助けてくれた人のことを知り、自分もそのような人になろうと決心されました。

退院して会社に戻れたのは1月半ば、社員さんが頑張ってくれていたお陰で業績は上向いていました。
さらに、浜口講師が一人で進めていた東京都の水道設計の指名を受けるための申請も入院先からお願いした通りに進めてくれたことで2月には無事に指名を受けることができました。

しかし、指名を受けたのは良いのですが、これは初めてのことで、いくつものハードルを越えていく術がわからず困ってしまいました。
そんな時、5年前に元請け会社をいくつも回っていた時に知り合ったある会社のM社長から連絡が入り、浜口講師の状況がわかっていたその社長から自分の会社の下請けとしてしばらく仕事をしてみたらどうか、という助け舟を出してくれました。

5年前に出会った時は、何十社と回った内の一社であり、浜口講師も特に気に留めていなかったにも関わらず、困っている浜口講師のことを知り連絡をしてきてくれたのです。
下請けとして水道設計の仕事をすることで進め方や事情がわかるようになり、会社に力をつけることができました。

水道設計の仕事について力もつけ、業績も上り調子になっていた時、その水道設計の仕事を中心になって頑張ってくれていた社員さんのご家族が大病を患い入院するという事態に遭遇します。
仕事はドンドン入ってくる中で、中心の社員さんが大変な状況に陥ったことで、会社内は再度ぐらつき始めます。
色々な揉め事が起こり、その社員さんが右腕と頼んでいた部下が辞めてしまうということも起こり、水道設計の仕事は完全に行き詰まってしまいます。

7浜口講師は悩みぬいた上、水道設計の仕事を出してくれていた元請け会社のM社長に仕事を返しに行きます。
納期が差し迫った仕事を返すということは当然してはならないことで、浜口講師は業界から追放されるということも覚悟して助けてくれていた社長のもとに向かったのですが、M社長からは怒るどころか事情を聞いて逆に浜口講師を気遣い、やれる仕事だけやってくれたら良いということを言ってもらったのです。
さらに、部下を失った社員さんのことも気遣い、それなら自分の会社に席を用意するからそこで仕事をすれば良いとまで言って頂いたのです。

そんな大変な状況の中、浜口講師は敢えて研修に行き、そこで研修講師から「そろそろ誰をバスに乗せて何処へ行くのかを決めなければならない」ということを言われ気付かされます。
これまで会社内で問題が起こった時は自分以外に目が向いて見えなかったのが、この時初めて自分自身を見つめなおし、我欲、執着、損得、保身などが見え、それらに囚われて建前上で人を雇用し経営をしている自分がいることに気付かされます。

これまでの会社は本当に自分が作りたかった会社ではありませんでした。
そこで改めて社員さんとどのような会社にしたいか、ということをトコトン話し合われました。
その時にまた社員さんを失うかもしれませんでしたが、浜口講師は自分の本質に向き合い、自分が本当に作りたい会社を一緒に働きたい人と作るということを決意されていました。

しかし、そのようなことがあったことで業績は悪化し、債務超過にまで突入してしまいます。
資金がショートし、12月には年が越せるだろうかというところまで追いつめられます。
そんな時に一本の電話が入ります。水道設計の仕事を出してくれていたM社長でした。

今回のことで信用を落とし、同じように仕事が激減してしまったにも関わらず、そのようなことは一切口にせず、浜口講師の会社のことを心配して、「お金がいる時期だろうから、これまでやってくれていた仕事のいくらかでも払うよ」といって1000万円もの振り込みをして下さったのです。
さらに続けて「1月も2月も3月も大変だろうから、その時はいつでも言ってきてくれたらいくらでも用立ててあげるから」とまで言ってくださったのです。

その晩は泣き明かした、世の中にこのような人がいるのか、浜口講師はこのM社長を通じて「善」と「愛」に触れたとおっしゃいました。
M社長は浜口講師にとって人生の師であり、M社長に出会えたことに心から感謝しているとおっしゃっていました。

また、同じ頃パートで頑張ってくれていた方が癌の告知を受け、退職を願い出るということがありました。
以前の浜口講師ならすんなり受け取っていましたが、自分の入院体験と自分の本質に向き合い、自分が作りたい会社を目指している今、パートさんには「やれるだけでいい、来れる時だけ会社にくればいい」と言って退職させませんでした。
この時からこのパートさんは変わられ、それまでは消極的だった朝礼や掃除を積極的に参加して、一所懸命頑張ってくれたそうです。

8さらに、再出発するにあたって社員さんを募集をされたのですが、その際もこれまで囚われていた業界の常識を捨て、未経験者や性別に関係なく、自分たちが目指す会社に賛同をしてくれる人に入ってもらうようにされました。
今では女性が7割以上、しかもほとんどが未経験者という業界ではあり得ない会社になっているということです。
でも、その社員さんたちは驚くほどの成長をし、頑張ってくれているとおっしゃいます。
そして、10年前とはまるで違う会社になりましたが、今は会社に行くのが楽しくてしょうがないとおっしゃいます。

ご自身の大病、会社内の分裂、社員さんの家族の大病、退職者の続出、業績悪化、債務超過、ありとあらゆる境遇に見舞われましたが、そのことでようやくご自身の内面を見つめ本質に気づくことができた、だからこれらの境遇は必然だったと浜口講師はおっしゃいます。
浜口講師はこの苦しまれていた頃に日創研に出会い、研修に通い、経営研究会にも入会、一番大変だった時に西東京経営研究会の初代会長に就任されています。

最初の頃は浜口講師お一人で研修や例会に行き、関心を持つ社員さんは一人もいなかったが、今は全員が自ら技術の勉強会、さらに「理念と経営」の勉強会も率先してやってくれている。
なぜこれほど違うのか、変わったのか、それはすべてご自身が持っていた我欲や執着、保身といったものがそれを阻んでいたということに気付かされたとおっしゃっていました。

9

続いて浜口講師をよく知る藤野隆司監事、太田和隆室長と共にパネルディスカッションが行われ、ここで浜口講師のお話に出ていた社員さんにもお話をして頂きました。

10 11 12

社員さんからは辛い時でも浜口講師やお世話になったM社長の人間力があったからやってこれたこと、今では浜口講師を中心に業界の常識に囚われず、全員が幸せになれることを考えて仕事に取り組んでいるということをお聴きしました。
社員さんの語り口からも、現在の会社の雰囲気がとても良いことが伺え、浜口講師を初め全員が互いを尊重し合い、助け合いながら仕事されていることが伺えました。

13壮絶なこれまでの人生を赤裸々に私たちに語って頂き、心が震える思いでした。
同時にどんなことがあっても受け入れ、前向きに生きていく勇気を頂きました。

浜口講師そして株式会社北斗プランの社員の皆様、本当にありがとうございました。

また、暮れのお忙しい中ご参加頂いたたくさんの会員の皆様にも感謝申し上げます。

12月例会 第二部はコチラ>>>