過ちを犯してこそ人間

行徳先生はご自分の「行徳」という姓がお嫌いでした。
それはご自身では全く逆の生き方「不徳」を生きてきたからだとおっしゃいます。

「年がら年中、煩悩の真っ只中を生きてきた」

その中にも一つの救いがありました。
それは京都の名刹「広隆寺」の本尊であり国宝指定第1号の「弥勒菩薩像」。

煩悩の真っ只中を生き、家族の反発を感じながら生きてきた中で、悩みや不安を感じた時にこの弥勒菩薩を長い時で3時間も見つめ続けたそうです。
そうすると、不思議なくらい気持ちがやすまったのですが、初めはそれがなぜだかよくわからなかった。

ある時寺の館長から教えを受け、20世紀最高と言われたドイツの哲学者カール・ヤスパースが戦前に日本を訪れ、この弥勒菩薩像を見て「人間が出しうる最高の気高さ」だと讃えたということを行徳先生はお聴きになりました。

カール・ヤスパースは30年にわたって世界中の仏像を見て回った哲学者ですが、その中でもこの弥勒菩薩の美しさは「他に類を見ない」と言いました。
ただ、行徳先生が納得をしたのは彼のその後の言葉でした。

「人間がこの気高さを出せるのは、まず過ちを犯した者である」

弥勒菩薩像が魅せる気高さ、美しさを出せるのは罪を犯した人でしかない、このヤスパースの人を見る目の深さに行徳先生は感銘を受け、同時にご自身の生き方に照らすことで、この「木像」が安らぎを与えることを理解されました。

そして、過ちを犯すことでこのような美しい姿になれるのだから「煩悩の真っ只中を生きる」という気持ちをさらに強く持たれました。

千葉県柏市の「親分はイエス様」という映画のモデルになった鈴木啓之牧師について触れられ、鈴木牧師がヤクザの世界から牧師になったことを教えて頂き、弥勒菩薩像と同じように行徳先生はこの牧師に時折「仏相」を見るということをお聴きしました。

全身に彫り物があり、両手には先のない小指というヤクザの頃の姿、過ちを犯してきた過去を持っているからこそ過ちを犯した人の心に入っていきやすい。

行徳先生も46年もの長きに渡って「山中訓練」をされていますが、それを行っている理由もやはり「過ちを犯しているからこそ」過ちを犯している人の心に入っていきやすいからだとおっしゃいます。

「現代人は曲がった鍵穴を開けるのに真っ直ぐな釘を使っている」

曲がった鍵穴は曲がった鍵でしか開けられない、「だから私は煩悩の真っ只中を生きる」と言い切られました。

行徳先生と親しい方で元ミリオン珈琲貿易株式会社のオーナーで作家の黒瀬昇次郎(故人)という方がいますが、この方には18人ものお妾さんがいました。
そのお妾さんに経済的援助のために、各地の目抜き通りにつくった喫茶店を与え、経営指導をしてチェーン店を運営させました。
行徳先生が晩年にお会いした時にはそのお妾さんが一人、また一人と世を去っていくことが寂しいと話されていたのですが、その人間性の「味わい深さ」を讃えられていました。

このことからも、「過ちを犯してこそ人間」だと行徳先生はおっしゃいます。
だから「煩悩がある人は人間的魅力がある」と。

野生の鴨の教え

1855年11月にデンマークのコペンハーゲンで一人の行き倒れの人物が病院に運び込まれましたが、その後彼を引き取ろうとする人が現れませんでした。
彼は生前「デンマーク一番の嫌われ者」と言われた人物でした。

デンマークは宗教国家で、国が教会を建て、牧師は皆公務員の扱いです。
彼は礼拝のために人が集まる日曜日の教会の前で、教会と集まった人に対して「瞬間」と書かれたビラを配って攻撃をしていました。

「あんたたちは月曜日から土曜日までボンヤリ生きてこなかったか? 曖昧を生きてこなかったか? 半端に生きてこなかったか? そして日曜日になると教会に来てアーメンを唱えて十字を切り、賛美歌を歌い、牧師の話を聴くことによってボンヤリ、曖昧を生きてきたことの罪を許してもらえたと錯覚して、また月曜日から曖昧を、半端に生きている」

「半端に生きることは犯罪ではない。しかし明らかなる罪だ。なぜなら生きることは一度しか無いからだ。曖昧を生きることの許しをもらわんがための教会の礼拝など辞めてしまえ。」

国教を攻撃する彼に対して人々は石を投げ、棒で殴られたこともありました。
しかし彼は世の中からの攻撃を受ければ受けるほど「私は紛れもなく生きていた」という強烈な生の証を残し、雪の中で野垂れ死にした、まだ42歳でした。

彼は出生に大きな傷を持ち、身体的なハンデを背負っていました。
彼はその療養のためにデンマーク郊外のジーランドという湖のほとりにある別荘に行ったことがありました。

その湖には毎年野生の鴨が飛んできていました。
その湖の近くに人の良い老人が住んでおり、この鴨に餌付けをしていました。

ここで行徳先生は最近の子どもの名前で人気の文字である「翔ぶ」という字を書かれました。
この「翔ぶ」というのは野生の鴨のように長距離を飛ぶ渡り鳥などでのみ使われるもので、スズメやカラスには使われません。

では、野生の鴨はどれぐらいの距離を飛ぶのかというのをアメリカのNASAが実験をしたところ、その距離は何と1万200km、時間にして1週間と7時間をかけてその距離を飛んでいることがわかりました。
さらに驚くのが、この間休むことも寝ることも、そして食べることをしないで飛び続けていました。

そんなたくましい野生の鴨がそのジーランド湖に飛んできていました。
餌付けをしていた人の良い老人は、やはりこの野生の鴨達が大変な距離を飛んできたことを労うために美味しい餌を用意して与えていたわけです。

鴨たちにとっても、このジーランド湖は景色もよく毎日おいしい餌にありつけるという最高の環境でした。
本来なら季節によって餌を求めてその地を離れるわけですが、この鴨たちはその環境に慣れ飛ぶことをやめて住み着いてしまったのです。

ところがある日、餌をやっていた老人が死んでしまい、餌が食べられなくなってしまいます。
飛ぶことをやめてしまった鴨たちは、飛ぶどころかかけることもできなくなってしまっていました。そんな時に、近くの山の雪解け水が激流となってこの湖に流れ込んできました。
かつて驚くほどの距離を飛んでいたたくましい野生の鴨たちも今や醜く太り、飛ぶこともかけることもできないために、その激流に押し流されてしまいました。

この話は「野生の鴨の教え」と言われ、後に「実存主義」という哲学となりました。
この「実存主義」を唱えたのが、デンマークのセーレン・オービエ・キェルケゴールです。

ところで、日本人はこの哲学を学問としてしまったので「難しいから自分には関係ない」と考える人が多い。
哲学とは学ぶべきものではない、「哲学はすることと学ぶべし」と行徳先生はおっしゃいます。

哲学とは頭で考えるものではなく、腹におさめるもの。
哲学を腹におさめることで勇気や度胸が生まれ、「ブレない人間になる」。

行徳先生は大学卒業後にある大手財閥系企業に入社されたのですが、当時労働争議が激しく繰り広げられていた頃で、入社当時は哲学とは無縁でしたが、そのような激しい環境下で働くうちに「力の哲学」というものを求め、この「野生の鴨の教え」にたどり着きました。

行徳先生にはこの「野生の鴨」というアダ名があるそうです。

教えの本質

この「野生の鴨の教え」をビジネスの世界に持ち込んだのがIBMを世界企業に育て上げたトーマス・ワトソンです。
その当時、ワトソンはミシンやカメラを車に乗せて売り歩く行商人でした。
しかし、彼はこの野生の鴨の哲学に大変な衝撃を覚えて、わずかな社員たちと作った合言葉が、「野鴨たれ」です。

そして、この社員たちが3900人になった時に、ワトソンの息子によって書かれたのが、『3900羽の野鴨たち』という本で、これはアメリカでベストセラーになり、あのアップルのスティーブ・ジョブズも読んでいました。
ジョブズが言った「ステイ・ハングリー」や、アップルのロゴマークは剥いていない「丸かじり」のリンゴは正に彼が「野生」に憧れて、「野生の鴨の教え」を創業の哲学にしていたことがわかります。

日本のビール業界にもこの哲学は活かされました。
戦前のビール業界は、大日本麦酒という会社がシェアの8割近いという圧倒的な強さを持つ、正に「王国」でした。

しかし戦後、占領軍によって財閥解体が行われましたが、その凄まじさは大変なもので、行徳先生が在籍されていた財閥系は特に、三菱商事などは200社ぐらいに分断されてしまいました。

大日本麦酒も真っ二つに割られました。
それが、アサヒビールとサッポロビールです。

それでも当時8割近いシェアだったので、それぞれ4割弱のシェアを持って分かれたはずですが、二つの会社ともに太ったアヒルになってしまっていたと行徳先生はおっしゃいます。
みるみるうちに落ちぶれていき、アサヒビールのシェアは10パーセントを割ってしまった。

そこへサントリーが新規参入してきたものですから、アサヒビールは風前の灯火でした。
マッキンゼーの1万人アンケートによると「アサヒビールなんかつぶれてしまえ」というような結果だったそうです。

そういう状況の中で、アサヒビールに「野生の鴨」が翔んできました。
それがアサヒビール中興の祖と言われた中條高徳元会長です。

中條さんと行徳先生のお兄様とは陸軍士官学校の同期生、戦友なのだそうです。
「野生の鴨」の教えを財界で最も体現された方は、中條会長だと行徳先生はおっしゃいます。

行徳先生はは中條会長にあだ名を二つ付けています。
一つは「野生の鴨」、そしてもう一つは「ラストサムライ」。

侍の魂を持った中條さんが「スーパードライ」を引っさげて、あっという間にサッポロに追い付き、サッポロを追い越し、王国にいたキリンに追い付き、キリンを追い越して、今やビールの王国に返り咲いた、というわけです。

「野生の鴨」の教えの本質とは何か?
行徳先生は即座に「悪」という字を書かれました。

「悪」と言うと刑法上のことを思い浮かべますが、キェルケゴールに言わせると、「安楽」こそがすべての悪の根源ということです。
人間が「これでいいじゃないか」「何とかなってるじゃないか」「こんなもんじゃないか、今更」と思う事自体が悪の始まりだということです。

ゲーテは「安住安楽は悪魔の褥」だと言いました。
行徳先生は、日本人は今この「悪魔の褥」に寝かかっている、と警告されました。

日本人は敗戦のがれきの中から頑張り、経済大国を築き上げた。
食べる心配も、着る心配も、住む心配については、多少「狭い」という不服はありますが、これとてもありません。

そんな中で行徳先生が大変癪なのが「水」、有料の水だとおっしゃいます。
戦争中に育った行徳先生は「水に金を出す」という習慣はありませんでした。
どこでも、水はタダで飲めました。
極端に言えば田んぼの水だって、澄み切っていたら飲んでも下痢をしなかった。
山に行くと、水はふんだんにあり、もちろんタダ。

こんなにおいしい水がタダで飲める国が、世界でどれほどあるでしょう。
そしに何よりも、日本人は安全、自由、平和です。
ですから外国人に言わせれば「日本人はおいしい水と平和はタダで手に入ると思っている世界でたった一つの民族だ」と。

行徳先生は尋ねられます「皆さん、平和と向きあおうとしたことがありますか?」。
皆平和から目を背けているとおっしゃいます。

行徳先生は若者たちを連れてよく旅をされるそうです。
平和と向き合うために、いろいろな所に出向かれるのです。
カンボジアの「キリング・フィールド(虐殺の広場)」まで、67人の若者を連れて行かれました。

キリング・フィールドというのは映画にもなったところで、一面の野原ですが、生えている草の間が布だらけになっている。
その布の下には、未だに処理できないたくさんの遺体、何千体というミイラです。
それを見て、何人もの若者たちは吐きました。
行徳先生もホテルに戻ってから気分が悪くなったそうです。
嫌というほど「平和とは何か」を見せつけられた場所だったそうです。

しかし、行徳先生は「平和とは何か」を感じさせる場所は、海の向こうまで行かなくても、日本にも何カ所もあるとおっしゃいます。
それは鹿児島の知覧です。

ある時、行徳先生は台風に出くわしたことがあり、記念館から半日出られないということがあったそうです。
そこで行徳先生は、半日間の間に引き出しを開けて、千名以上の人が遺した、特に若者たちによる遺書をご覧になったそうです。

その遺書の中には17歳の若者のものが7通ありました。
その1通の中にはこんなことが書かれていました。

「母さん、先に旅立つ不孝を許してください。明日特攻隊員としての名誉ある命令を受けました。あと1日の命です。
残す1日を目の前にして、この17年間何のために生きてきたか、ようやく訳がわかってきました。
かわいい妹や弟、生まれてくる子ども、そして日本の永遠のために命を捧げます。
父さん母さん、17年間、本当に本当にありがとうございました。
天国で待っています。」

たった17歳の若者が、こんな遺筆を残して南に散っていった、と行徳先生は涙をこらえながらお話して下さいました。

窪塚洋介さんという若い役者がいますが、彼は6年ほど前、石原慎太郎さんが原作された特攻隊の映画に出るということで、行徳先生は撮影の時に窪塚さんと一緒に知覧を訪れたそうです。
その映画の中で食堂のおばちゃん役になったのは岸惠子さんですが、あのとき実際の特攻隊員で宮川という20歳の子が、「僕は必ず帰ってくる」と、その食堂のおばちゃんに言うシーンがありました。
燃料は片道しかないのですから、帰れるわけはないのにそのように伝えました。
食堂のおばちゃんが「どうやって帰ってくるの?」と聞くと、「僕はホタルになって帰ってくる」と言う。

実際に、食堂の裏側には小さな川があり、そこに大きなホタルが飛んでいました。
季節外れに行ってもホタルが飛んでいます。

行徳先生はおっしゃいます。
「私たち日本人は、平和と豊かさを貪っている。」

気の喪失と「ときめき」

野生の鴨たちは、おいしい餌と景色のよさに飼いならされて、翔ぶ力を失った。
人間は、平和と豊かさを貪って何を失ったのか。
それは「気」の喪失、人間がかかる最悪の病気がこの「気の喪失」だということです。

フランスに「マルドシェクル」という言葉がありますが、「正気の病」という意味です。
人間がかかる「正気の病」とは、「気の喪失」という病なのだそうです。

ところが、この「気」という言葉はいろいろな所で目や耳にしますが、漠としています。

これは、中国のタオイズム「道教」から来ています。
その中に

「人の生とは気の聚(あつま)れりなり」

とあるのですが、私たちが生きているというのは「気が聚っている」ことをいう。

「気聚れば生となり、気散ずれば死となる」

ですから「気」は「命の源」ということです。
命の源が「安住安楽」の中で容赦なく失われていく。

行徳先生は「経営の難しいことはわかりませんが」と前置きをしつつ、経営や事業、商いがうまくいかないところの極めつけはこの「気の喪失」であるとおっしゃいます。

これをさらにわかりやすく「ときめ(気)」とつけて考えれば良い、と伝えられたのが浜松医科大学の大原健士郎先生だということです。
大原先生は医者として、人間がどう生きていくべきかを「何にどうときめいたか」そのときめきの度合いが「生の証明」だと説かれました。

ですから、私たちの会社や仕事がうまくいくかいかないかは「人にときめかせる何かを作っているか、売っているか」ということだと行徳先生はおっしゃいます。
「買わずにはおられない」、「行かずにはおられない」、「そうせずにはおられない」ものを作っているか、売っているか。

さらに、経営者自身が、相手にとって「会わずにはおられない」人物なのかどうか、それが決め手だということです。

行徳先生のもとを訪れた方の中に、現在の「原宿文化」を作った人がいます。
原宿は現在の姿になる以前は明治神宮の静かな参道でしたが、それを現在の若者文化の発信地にした人が松本瑠樹という方で、昨年亡くられましたがファッション業界のリーダーでした。

松本さんが行徳先生のもとを訪れたのは21、22歳の時だったそうですが、当時はその若者が今の原宿を作るとは思いもしなかったそうです。
松本さんは事業を成功させ財を成し、その一等地に豪邸を建てましたが、その豪邸の真中にボロボロのミシンを置いていました。
そこで行徳先生がそれを尋ねると「このボロボロのミシンが僕の原点だからです」と答えられた。松本さんは学校に行けず、社会に出て最初の仕事がこのミシンを踏むことでした。

松本さんは一所懸命このミシンを踏んで仕事をしたところ10万円が貯まった。
松本さんはこの10万円を元手に事業を起こし、その12年後には売上240億円の会社にした。
どのようにしてそこまでの売上にできたのかを尋ねると、

「実は商いとかビジネスとか仕事、経営というのはそれほど難しいことではありません。

『経営学全集』とか学者が書いたものを購入して読んでいる経営者がいますが、そんなものを読んだところここまでにはなりません。
私が成功できたのは、私が関わり合う人たち、つまりお客さん、下請けさん、従業員たち、そして家族や仲間、この人たちを『どれだけドキドキ、ワクワクさせるか』、つまり買わずにはおられなくさせること、作ることです。」

これからの時代に生き残れる産業は「ときめき産業」だけだということです。
行徳先生がこの「ときめき産業」という言葉を最初に聞いたのは、お知り合いの広島銀行元頭取の橋口収さんからだったそうです。

広島商工会議所の会頭でもあった橋口収という方が行徳先生のお兄様とお知り合いであったことから、広島で行われたある勉強会に行徳先生が参加した際に担当された橋口さんに学びのテーマを尋ねられたところ「企業感性」という回答をされたそうです。

どれだけ人を「ときめかせる」ことができるか、そのような商品・サービスを作っているか、売っているか、どれだけ「会いたくてしょうがない」と思わせるような経営者になるかどうかがこれからは必要だということでした。

現在の東京駅前に建つ巨大なビルのうちの一つがアメリカの世界的な金融機関グループである「モルガン・スタンレー」ですが、そのモルガン・スタンレーが最初にやっていた商売は「露天商」でした。

ある時みすぼらしい老婆が彼のもとに煙草を買いに来ました。
老婆は少年モルガン・スタンレーとやり取りをして最後にこう言いました。

「私は死ぬまで君からしか煙草は買わないよ」

彼は後に回想録に「私がどん底の貧困から巨大財閥を作り得たのか、それは街頭で煙草を売っていた子供の頃に、わずか1セントのかぎ煙草を買いに来た老婆にして『死ぬまで君からしか煙草は買わない』と言わしめたからこそ、世界の成功者になれたのだ」と述べていますが、つまりこれが「ときめかせた」ことなのです。

行徳先生は現代の恐るべき病としてこの「感性の磨滅」を訴えられました。

「感性」には「感性命(かんしょうみょう)」という言葉があり、感性は命であり、感性が鈍るということは命が鈍っていることだということです。
だからこそ人間の生きとし生ける力は感性であり理性ではない。

「理性命」や「知性命」という言葉や教えはどこにもありません。
つまり理性や知性はどれだけ磨こうとも命を作ってはいません。
それなのに、私たち現代人は狂ったように頭ばかり磨こうとしている。

頭でしか物が見られなくなること、つまり「感性の磨滅」ということ「命の磨滅」という危機に現代人は出くわしているのだと行徳先生は強く訴えられました。

そして、だからこそ行徳先生は「感性」を一言で伝えろと言われたらそれは「紛れもなく”私”のこと」だとおっしゃいます。
それだけに、感性の豊かな人は人生が「”私”が鮮やか」であり、感性の低い人は「自分が曖昧、不確か」であり、自分を「粗末」にして生きている、自分を粗末にして生きている人が他の人を大事にはできない、とおっしゃいます。

「己こそ己の寄るべ己を置きて誰に寄るべぞ(釈迦)」すべての「寄るべ」を自分に集めること、それが間違っているかどうかは二次的(後から考えたこと)なことだと。

正しいか間違いかだけで人や現象を見ていると、それは誤っていくことになる。
人間というのはそれほど単純なものではなく、もっと「素敵な」存在です。
ですから、まず良い悪いを捨てること、私たちは「考えすぎている」ということです。

考えて解決することはない、解決するのは行動だけ、行動とはつまり「感動」だと。

「行ずれば証はそのうちにあり、行ぜずして証は得ることなし」

感じるから動けるのであり、感性が磨滅するから動きが鈍くなる、動かなければ何の証もみつけることはできない。

強さと優しさ

同時に現代人は「学びすぎ」とも行徳先生はおっしゃいます。
「学びを断てば憂い無し」学ぶから憂える。

「行余学文(行って余力あらば文を学べ)」まずやってみて、余った力があったら勉強しろ、という論語の一説がありますが、現代人はこの逆をやっています。

全ては行動、そして行動とは感じるから動く、ですからリーダーは部下に「感じ」させなければいけない。
理論的に正しいから、物事を知っているから部下はついて来ると思っているかもしれないが、後ろを振り返ると誰もついてきてはいない。

人は感じさせなければ動きません。
これからは、感性の鈍い人は指導者として失格です。

行徳先生は今日の講演の前に九州各地を回られていて、福澤諭吉の生誕地である大分県の中津にも立ち寄られました。
福澤諭吉の屋敷跡は観光地になっていてたくさんの人がいますが、その隣の空き地には誰もおらず、石碑だけが建っている。
その石碑には「増田宗太郎生家の跡地」と書かれています。

増田は福澤諭吉の再従弟に当たり、住まいも近所で親しい交際があったのですが、福澤が咸臨丸に乗って外国を見聞し「外国にかぶれて」しまったため、それが許せなくなった。
福澤の暗殺を企てますが失敗し、福澤に失望した増田は中津から57人の若者を連れて西郷のもとに走りました。

しかし西郷は追い詰められ、増田は連れてきた57人の若者に中津に戻るように話します。
血気盛んな若者は最初から死ぬ覚悟で出てきて、ここまでの戦いの中で仲間を失ってきたのに、なぜ自分たちだけが生き恥をさらして中津に戻らなければならないのかと反対します。
増田は彼らに、行動を共にしてきたが、自分のように「寝起きを共にした」わけではない。

「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」接すべきを重ね、今や去るべくもあらず、だから私はこの西郷という人から離れられない、良い悪いはどうでもよく、西郷先生と生死を共にするしか私の生きる道はないと語り、彼らにはその語り部になるためにも中津に戻るよう説得しました。

泣く泣く中津に戻った57人の若者の名前が碑に刻まれています。
鹿児島の西郷の墓の横には増田の墓もあるのですが、増田の墓だけは中津の方向に向かって建っています。

これだけ人を慕わしめた西郷ですが、彼は理屈でそうしたわけではありません。
そこには、現代人が忘れかけている、どうすることもできない「情」というのものがあります。

「情」とは感性であり、感性は「人の痛さを自分の痛さにできる力」であり、自分の喜びを人に喜びとして「感じ取らせる力」です。
これが無い人がどうして経営者が務まるでしょうか、なぜ人が慕って集まってくるでしょうか。

感性豊かな人に人は慕います。
この「感性=まぎれもない”私”」にあるのは「強さと優しさ」です。
今日色々な人の話をしましたが、本当に強い人は紛れもなく優しい人です。

アメリカのハードボイルド作家、レイモンド・チャンドラーは言いました。

「男たちよ、逞しくなければ生きていけない。しかし、優しくなかったら生きる資格は無い」

優しさと強さは同義語であり、臆病と冷たさも同義語です。
日本人はこの優しさを失いつつある。
それは、現代が一寸先は闇の「盲目社会」だからです。

でも一寸先は真っ暗闇の時代ほど面白い時代はありません。
明日何が起こるかわかっていたら、そこから夢や冒険やロマンが生まれるでしょうか。
明日何が起こるかわからないから面白い。

福澤諭吉は「盲目社会に対するは獣勇なかるべからず」と言い、一寸先が真っ暗闇の時代でも生き残る道がある、それは獣の勇気を持つこと、つまり「野生に戻れ」と言っています。
獣は考えない、考えないから迷わない。

もう一つは「時間の観念」が無いこと。
経営者が持つ不安はこの「時間の観念」から生じています。
「過去・現在・未来」という中にいて、経営者はいつも「未来」を見て「先の心配」ばかりしています。
ゲーテは「未来を思い煩う人の何と哀れさよ」と言いました。

明日生きていると誰が言い切れるのでしょうか。
何が起こるかわからない先のことを思い煩ってもしょうがない、できるのは今を生きることだけ。松尾芭蕉の句に「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」とあります。

明日は今の中にしか無い、今が全てです。
そして決定的な全てが「私」です。
だから、「今、ここ、自分」を生きてご覧なさい、これほど面白い時代はありません。

最後に行徳先生は、アインシュタイン博士が日本に来て、各地を周遊し、最後に門司港から出国する際に残したとされる言葉を教えて下さいました。

「現代日本の発展ほど世界を驚かせた国はどこにも無い。それは一系の天皇制がこれによる。それが日本人を日本人たらしめている。私はこのような尊い国が世界に一カ国なければらないと信じている。人類の未来は進むだけ進んで、その間に幾度も幾度も闘争を繰り返す。しかしやがて人類はその闘争に疲れ果てる時が来る。その時人類は真の平和を求めて世界の盟主を挙げねばならない。その世界の盟主とは武力でも金の力でもなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた最も古く最も尊い家柄でなければらない。それはアジアに始まってアジアに帰る。そのアジアの最高峰日本に立ち戻らなければならない。我々は神に感謝する。神が我々人類のために日本という尊い国を作っておいてくれたことに。」

私たちが日本人であることの誇りを持ち、自分の誇りを失わないでこの時代を生きぬいていってもらいたい、と述べられ締めくくられました。

行徳先生、素晴らしいお話を本当にありがとうございました。

また、ご参加頂いた皆さまにも改めて感謝申し上げます。

次回4月例会はマーケティング実践委員会の

「コアコンピタンス経営を経営研究会の仲間の事例から学ぼう」

日  付 :2017年4月11日(水)

例 会  :17:30〜20:30(受付16:30〜)

場  所 :日創研 東京センター

皆さま奮ってご参加ください!