今回は2年半ぶりに講師を会場にお招きして、参加者が直接講義を聴けるというリアル例会でした。
講師は静岡県浜松市にある株式会社都田建設の創業者で現相談役の内山覚さんです。

人生に無駄なことなし

内山講師は生まれも育ちも浜松の都田町で、浜松からは出たことがないというまさに都田に根を下ろした人生だと言います。
農家の6人兄弟の末っ子として生まれた内山講師は、夏休みが嫌いだったそうです。
農業というのは雑草との戦いだと言いますが、内山少年も夏休みになると野良仕事に駆り出され、暑い中もくもくと草むしりをしていました。
遊びたい盛りの小学生が夏休みに遊ぶ代わりに草むしりというのは大変酷なことで、内山少年もこの家に生まれたことを恨めしく思ったそうです。
でもある時、近所のおばさんから
「覚君は偉いね、家の手伝いをして。うちの子は何も手伝わない、遊んでばっかりだ」
と褒められました。
そのおばさんの息子さんというのが頭は良くてスポーツ万能、地域のリーダー的存在の子だったそうで、その子のおばさんから比較して褒められたことで優越感に浸れました。
普段母親から「お天道様が見てるよ」というのはこのことかと、見てくれる人がいるということ
に気がつき、それ以来野良仕事が苦にならなくなったということです。
内山講師はこの体験から地域で「一声かける」という運動を20年続けています。
朝の登校時に交差点に立ち、小中学校の子どもたちに「おはよう!」と声かけをします。
今では地域の学校に講演に行くと子どもたちから「おはようのおじさんだ!」と言ってもらえたり、地域の方からも「良いことしてますね」と評価してもらえるようになり、ありがたいことだと内山講師は言います。

内山講師が小学6年生の時、それまで働きに出て家計を支えてくれていたお姉様が結婚することになり、家から離れるということから農業だけでは難しいということで父親が土方仕事で日銭を稼ぐということになりました。
ところが、内山講師が中学入学して勉強に励もうとした矢先、父親が脳梗塞で倒れ寝たきりになってしまいました。
それからは、学校から帰ると父親の世話と家事を手伝うという状況になりましたが、その頃は特に辛いと思わず、それよりもはや親に頼れないので早く働きに出て親に楽させてあげたいと考えるようになりました。

浜松にはホンダやヤマハといったメーカーがあり、当時は中卒でも雇用していましたので内山講師も卒業後は工場で働くことを考えていました。
でも担任の先生が勧めてくれたのは「大工」でした。
なぜ自分が大工なのか、想像もしていなかっただけに戸惑いましたが、先生から「食べていくのに苦労しない」と言われ、だったらということで大工になることを決意しました。
ただ、高校の資格だけは持っておくように言われ、建築科のある定時制高校に働きながら通うことになりました。
そのために両親は田んぼを一つ売って、入学金や通学用の自転車などを用意してくれました。
内山講師が両親への感謝と一日でも早く楽させてあげたいという思いをより一層強く持ったことは言うまでもありません。

しかし、就職した内山講師は給料があまりに少ないことに愕然としました。
住み込みで、当然大工仕事はできず掃除や片付けぐらいしかできないからとはいえ給料はわずか5千円で、学費の足しにもならず困ってしまいました。
それでも内山講師はそのことを逆にバネにし、「心に火がついた」と言います。両親を早く助けたいと思いながら就職をしたにも関わらず、まだ一人前ではないことから親を頼らざるを得ない。とにかく一刻も早く一人前になり、両親を助けられるだけの収入が得られるようになろうと考え、皆んなが休んでいる時でも古くなって使わなくなった道具を磨いて使えるようにして、技術の習得に励みました。
そういった辛い境遇でも「感謝している」と内山講師は言います。仕事をしながら定時制高校に通わせてもらい卒業させてもらいましたし、何より厳しい環境だったからこそ心に火がつき、目標を持って我武者羅になって働くことができたからです。

また、その丁稚奉公時にオイルショックによる不景気も経験しましたが、ここでも後に糧となる体験をしました。
不景気で元請けからの仕事が減ってくると、それまで外注していた建築以外の作業も極力自分達でこなそうと言うことになり、基礎工事や左官、屋根葺などの仕事も行うようになりました。
当時はなぜ大工の自分達が細かな作業までしないといけないのか、と嫌がっていましたが、そういった細部の仕事を経験したことで独立後に他ではしないような細かな指示や提案ができるようにり、お客さんからの信頼を得ることにつながりました。
嫌だな、面倒だと思うようなことでも経験しておくとそれが糧になるもの、だから不景気で辛かった時でも感謝しているということです。

250年続いて一人前

そういった努力もあり、内山講師は中学卒業後に就職した会社で仕事を覚えながら定時制高校も卒業、お礼奉公として一年務めた、就職から5年後のまだ20代に独立することができました。
独立した当初は仕事もあり順調でしたが、すぐに仕事が途切れて何もすることがなくなりました。やることがないので博打に走りましたが、“運良く”負け続けたことでお金もなくなり、このままでは仕事を教えてくれた親方に申し訳ないと考え、修行し直すことにしました。
改めて会社に勤めながら建築士の資格を取り、結婚もして家族ができたことで再出を決意、30歳で二度目の創業を果たしました。

この時は早朝から深夜にかけて、見積りから図面を引いて現場作業に至るまで一人でこなし、とにかく目一杯働きました。
しかし、無理がたたって倒れてしまった内山講師は、これでは続かないということで職人さんを雇うことにしました。
職人さんが加わったことで仕事はこれまで以上に捌けるようになり、業績は右肩上がりに伸びていきました。
好事魔多し、当時左うちわで意気軒昂だった内山講師は現金を持ち歩くことにステータスを感じていたのですが、ある時社員さんの給料を車上荒らしに遭って失ってしまいました。
困った内山講師は慌てて銀行に借りにいきますが、いきなり大金を貸してくれるところはなく、仕方なく消費者金融に借りることにしました。

「お天道様が見ている」今の自分の姿を見て罰を与えてくれたと言う内山講師ですが、これがきっかけで経営状態は急激に悪化していきました。
借金の高金利に苦しめられ、返しても返しても減らない借金に、ついには自分の保険金まで考えてしまうほど追い詰められました。
そんな時に、内山講師の窮状を知ってか知らずか高校の同級生から日創研を紹介されました。
最初は嫌々行っていた研修でしたが、可能思考研修修了時には20代の頃に抱いていた希望を思い起こし情熱に燃えていました。そして驚くことに、死を覚悟したほどの借金を1年で完済したということです。

ところが、そのことでまた天狗になってしまった内山講師は勉強することをやめてしまい、しばらくするとまた業績が落ち込んでしまいました。
このことから勉強の大切さに気づいた内山講師は改めて日創研で経営の勉強を始めました。
その頃から松下幸之助翁が書かれた本を読むようになり、「会社は社会の公器である」という考え方に感銘を受け、社会に貢献できる会社にしようということから社名を内山建築店から株式会社都田建設に改名しました。

また、松下幸之助翁の本に書かれていた「会社は250年続いて一人前」というのを見つけ、これを目指そうと決めました。
建築業は家を建ったら終わりで疎遠になることが多いのですが、建ってからのフォローが大事で、建てられた方のお子さん、お孫さん、というように5代先までお付き合いができるようになれば250年続きます。
その考えから生まれたのが「ドロフィーズ(DLoFre’s)」です。
DLoFre’sはDream(夢)、Love(愛)、Freedom(自由)、’s(仲間)を組み合わせた造語で、都田建設さんが手がける事業に対する考え方で、工法を含めた建てられる家や顧客、そして地域とのコミュニケーション施設にもその名が配されています。
都田建設の事業ドメインは建設業ではなく「ライフスタイル提案業」とし、家のことだけでなく家を含めたライフスタイル全般にわたって提案することで、永くそして幅広くお付き合いしていこうということです。
この考えが浸透していることがわかる代表例が住宅展示場です。
都田建設さんには住宅展示場がありません。その代わり、家を建てられた8割がたのお客さんが実際の家(引き渡し前)を展示場として無料で提供してくれるのです。お客さんも自分が建てる時に同じように建っている実際の家を参考にしたから、という思い入れがあり、その思いが繋がっていっているのです。

出会い

また、松下幸之助翁が語った「税金を払って、内部留保しなさい」ということについての恥ずかしい思い出があると内山講師は言います。
日創研の業績アップ研修を受講していた時、当時講師だった田舞さんに自信を持って決算書を見せると「死んでいる」と言われました。なぜなら、その当時は税金を払わないようにするのが良い決算書だと考えいたからです。
さらに、研修の中でバランスシートについて学びましたが、何をどうすれば良いのかよくわかりませんでした。
そこで内山講師はわかりやすくするにはどうすればいいのかを考えて、借金をしないことにし、科目を減らしてシンプルなものにしました。
これによって財務状況が良くなっていき、今では社員さんの給料が3年間払えるだけの内部留保をし、それ以上について投資に充てることにしたということです。

都田建設さんにおけるこの内部留保と投資、さらには無借金経営にに大きな影響を与えたのが、現在の社長である蓬台浩明さんです。
蓬台社長は平成10年(1998年)に入社、ハローワークの求人から来たということですが、さらに驚くのが入社して1年半ほど経った時に当時の社長であった内山講師に「このままだと会社潰れますよ」と提言されたということです。
蓬台社長は静岡大学工学部と千葉大学の工学部建築学科で学び、卒業後は大手ハウスメーカーの営業として働くいわゆる“エリートサラリーマン”でした。
しかし、大手ハウスメーカーの仕事に対する姿勢に疑問を抱いた蓬台社長は、家を建てる現場でお客さんと直接触れ合うことができる会社を求めて都田建設に転職しました。

でも、当時の都田建設さんの仕事は下請けが中心で、年に1〜2度新築物件を扱うという状況で、このままでは成長し続けるのは困難だと考えて、蓬台社長は当時の社長である内山講師に自社ブランド商品を作ることを提案しました。
自社ブランドの構築には大変な費用はかかったが、会社も業績も大きく成長することになりました。
蓬台社長が入社する前年に法人化(有限会社)し都田建設を設立しましたが、この自社ブランド化のお陰で2001年には株式会社に組織変更、晴れて「社会の公器」となり末長くお客さんの家を守り続けることができるようになりました。

理念について

都田建設さんの企業理念は3つの言葉で表されています。

正道を歩む
信念とホコリを持って、嘘・偽りなく行動する。

感謝する
出会いや仕事のあることを素直に喜ぶ。

社会に貢献する
夢と感動を与える活動を通じ、適正利益を出し続ける。

内山講師がまだ丁稚奉公をしている時、建築途中で大きなミスをしてしまいました。その中でも問題となったのはミスが分かった時点で正直に伝えなかったことでした。「何とかなる」としていましたが、結果的にどうにもならず完成後にやり直すことになり、お客さんにも会社にも多大な迷惑をかけてしまいました。
ミスが分かった時点で正直に伝えて速やかにやり直してさえいれば、大事にならずにすんだものを、怠慢さが招いた問題であり、それによって信用信頼を大きく損ねることになってしまいました。
内山講師はこのことから自戒を込めて「正道を歩む」ということを理念とし、社員さんに対しても「ミスをしようとしてミスする人はいない、だからミスをしたら正直に速やかに伝えること」を徹底しているということです。

内山講師は2007年に社長を蓬台浩明さんに交代し会長に退きましたが、その際にお願いしたことがこの理念を引き継ぐことと都田から離れないということでした。
理念は内山講師が日創研など様々な形で学び、これまでの自分が体験したことから得た教訓でもあります。そしてそれを学ばせてくれたのは内山講師が生きてきた都田という土地でした。
そこでの人や物事、一声かけてもらえることの喜びや仕事を覚え仕事をさせてもらえる喜びを知り、それを自分や自分の会社の利益にとどめるのではなく、新しいお客さんや仕事をさせてくれる地域に新しい価値にして還元していく。
この内山講師のお客さんや地域への熱い思いが都田建設さんの原動力となって、人を惹きつけ新しい価値が創造されていくように感じるお話しでした。

内山覚講師、貴重なお話をありがとうございました。
ご参加いただいた皆様にも改めて感謝申し上げます。