今回の講師は宇都宮で400年続く青源味噌株式会社の代表取締役社長の青木敬信さんです。

青源味噌さんでは味噌をはじめ、原材料である米麹を使った甘酒、さらには味噌に含まれる乳酸菌を使った飲料も製造しています。
宇都宮駅にはお土産を販売するお店と味噌ダレで食べる餃子の飲食店もあります。
青源味噌さんでは、その創業400年を前に本社と工場を移転することに決め、2021年コロナ禍の只中に移転をしました。
なぜそのような大変な時期に大掛かりな移転をするのか、と誰もが考えるところですが、そこには歴史に刻まれたある思いからだったということです。

始まりは米問屋

創業が1625年ですから江戸時代のまだ初期、徳川家光が三代将軍になった(1623年)ころに始まっています。

元は大分県の国東半島、戦国時代に豊後と呼ばれたその場所を治めていた大友宗麟とその子義統に仕えていた国衆、地方豪族の青木対馬守ということで、大友親子それぞれから贈られた感謝状が下方として残っています。
その後義統は改易され常陸国(茨城県)の佐竹家に預けられますが、青木家も一緒に常陸に移り、その後の関ヶ原役で大友家は滅亡したために下野国(栃木県)で米問屋として再出発したのが始まりだということです。

始まりは米問屋なのですが、そもそも味噌というのは各家庭で作られていたもので、江戸時代の半ばに江戸の人口が増加しそのほとんどが狭い長屋くらしだったために、味噌を保存しておく場所がないことから都度お店から買い求めるというスタイルが生まれたことから、青源味噌さんも米問屋の兼業として味噌の製造販売を始めたということです。

宇都宮で味噌の製造販売を始めたきっかけは、近くの日光に東照宮を建造することから、たくさんの職人とその家族が日光や宇都宮に移り住むようになったことから、需要が高まり始めたということです。
明治になってからは富国強兵の号令のもと栃木の足尾銅山が大いに賑わい、鉱夫がたくさん働いていましたが、彼らへの味噌の供給が求められ、青源味噌さんも大きく業績を伸ばしました。
実はこの直前、明治維新の戊辰戦争の時に宇都宮は戦場となって、青源味噌さんも全焼してしまいました。それ以降は米問屋は廃業し、味噌の製造販売の専業となりました。

しかし、昭和20年の太平洋戦争の時に軍需工場があったことから宇都宮は空襲され市内は全焼、再び青源味噌さんも全焼しました。この時青木講師の祖母も亡くなられたということです。
その後復員した青木講師の父である先代が、日本の戦後復興、高度成長に合わせて近代的な工場として再建されました。この時も食糧難の時期にあって、味噌の需要が非常に高まったことが影響していました。

青木講師はその高度成長の終焉、昭和48年のオイルショックで物が売れなくなった頃、味噌の需要が低迷し始めた昭和49年に入社しました。それまでは味噌はよく売れた商品だったわけですが、青木講師自身は入社してから今まで、よく売れる商品というイメージは持っていないということでした。
また、青木講師が社長に就任されたのは平成23年、東日本大震災が起こった年であり、これも巡り合わせなんだろうと話します。
平成27年には「青源400年ビジョン委員会」を立ち上げ、その一環で新工場建設と移転を決め、コロナ禍の中執り行われたということです。

三度の大火を乗り越えて

400年続く老舗と聞くと、これまで順調でたいそう儲かっているように思えますが、少なくとも青源味噌さんはそんなことはなく、ピンチの連続だったと青木講師は言います。

17世紀(1625年)に創業し、18世紀(1773年)には「安永の大火」といって宇都宮の8割が焼失したとされる大変な火事があって、青源味噌さんも全焼しました。
さらに19世紀(1868年)には戊辰戦争で宇都宮が戦場になったことからやはり全焼。そして20世紀(1945年)の太平洋戦争の空襲によって三度全焼するという大変な歴史を歩んできています。

そんな中でも立ち直り続けることができたのは、最初の火災で家宝の文書などを守るための文庫蔵を建造し、二度目の火災で原材料を貯蔵しておく原料蔵、いずれも石造の火災に強い蔵を造ってくれていたおかげで、戦後焼け野原になった中でも2つの蔵だけは残り、それを基に復興することができました。
さらに、復員後に味噌の製造を再開した先代も最初は味噌のことは何も知らなかったそうですが、復員してきた以前の職人さんたちが会社に戻ってきて味噌作りを再開してくれたので、以前のように復興することができました。
また、当時の顧客であった酒屋さんからも「青源味噌さんが再開するなら」ということで以前同様に仕入れて販売してもらえたことが復興とその後の成長の支えになりました。

これらのことから、崖っぷちのようなピンチに遭っても、むしろそのような時に手を差し伸べてくれる人がどれだけいるのか、そのようなお付き合いをしてきたのかが永く続けてこられた1番の要因だろうと青木講師は言います。
だからこそ、代々受け継ぐ書物や原料を残してくれた祖先、そして苦しい時に助けてくれたお客様や地域の方々への「ご恩を忘れず、いただいたご恩に報いること」を経営の根幹に置いています。
経営理念である「人生貢献・品質本意」というのは、ご利用いただく方の毎日の美味しい食事と健康を守ることで「ご恩に報いる」というものだということです。

「人生貢献」とは、味噌づくりにおいて決して目立つような大きな貢献はできませんが、日本人の食の基本である「一汁一菜」から味噌の日常性を考え、普段の日常生活のほんの一部ですが利用される方の人生に永く貢献し続けるという意味です。
また、各家庭で味噌を作っていた頃は、自分が仕込んだ味噌が一番美味しいと思うところから「手前味噌」という言葉生まれた通り、味噌は同じ原料で作っても作り手によって出来上がりがそれぞれ異なります。当然製造する会社によっても違います。

科学的ではありませんが、これは発酵という微生物の働きから商品が生まれることから、作り手がいかに原料や商品に対して愛情を持って作っているか、その思い入れによって変わってくるものだろうと青木講師は言います。だから、作り手の体調はもちろんですが、職場の雰囲気や人間関係も影響してくる。
「品質本意」とは商品の質を守り高めるためにも、それを左右する造り手の質にもこだわっていくということだということです。

ただ、現代において味噌は以前ほど求められていないことから、これまでの「人生貢献」の考えにとどまらず、「今の時代のお客様」にとって喜ばれる仕事をすることとし、時代の変化によって変わるお客様への貢献によって喜んでもらえることを「社員の働き甲斐」にする、と経営理念の考え方も変化させています。
つまり、青源味噌さんの商品は味噌ではありますが、それは提供する一つであり、本質は味噌をはじめとする日本の伝統的発酵食品の価値を提供することであると青木講師は言います。

お客様は「創業400年」だからといって味噌を買ってくれるわけではない、それはあくまで独自性の一つであり、興味を持ってもらえるかもしれないが、購入のきっかけにならないだから「強み」ではないということを現在の経営理念の考え方にしているということです。

青源が目指す「永続」

決して悪いことではありませんが、我々経営者は右肩上がりに業績を伸ばすこと、拡大していくことを目的とし、日々の数字目標を追うという経営になりがちです。
青木講師が青源味噌さんに入社した50年前は、栃木県内に青源味噌さんよりも規模の大きい味噌製造会社が4軒ありましたが、青源味噌さんの10倍の規模を誇った会社を含めて全て無くなってしまいました。
つまり、会社が大きくなれば潰れるということはありませんが、大きくなれば永続できるという保証も無いということ。

近年のスタートアップなどに見られる短期で利鞘を稼ぐことを目的とした経営手法が、巨額な資金が動くこともあって注目されがちですが、そこに会社として経営者としての使命は無く、社会に貢献するという意志はありません。
社会への貢献に終わりは無い、だからこそ会社は永続しなければ使命を果たすことはできないと青木講師は言います。
しかし、大きくなっても永続する保証が無いわけですから、事業を100年続けていこうとするには欠かせない力があるということでした。

  1. お客様への新たな貢献を創り出す創造力(開発力)
  2. 献身的な努力を厭わない人財力(正しい仕事観)
  3. ときに「小さくなる」覚悟(経営力)

これは400年続けてきた青源味噌さんの歴史と経験に裏打ちされたものです。
会社が代替わりして続いていくのと同様に、お客様も代替わりしていきます。人が変わるだけで無く、時代によって価値観も変わりますから、その変化に応じて貢献も変えていく、アップデートしていかなければ続きません。

会社の目的と同じで、そこで働く人の目的も「働いた分のお金をもらう」といったことでは長く続きません。働けばお金がもらえるのではなく、お客様に喜んでもらうことで商売が成立するのですから、「喜んでもらう」ことが、貢献することが仕事のやりがいとして働かないと続きません。

さらに、100年に一度大きな災害に遭いながらも400年続いた青源味噌さんだからこそ言えるのが「小さくなる」覚悟を持つということ。続けていくと調子が良い時もあれば大変なことが起こることもあります。それを正しく見極めて、長く厳しい冬が来ると判断した場合は、これまでのやり方に固執することなく、小さくその場にしゃがみ込んでやり過ごすということも必要だということでした。

青源400年ビジョン

2025年に400年を迎えるにあたり、その10年前の2015年に「青源400年ビジョン委員会」というのを発足させ、社内から有志で11人が集まり、2025年からの次の100年に向けた「あるべき姿」を考えることになりました。
様々な意見やアイデアが出てきた中、決まったのがそれまでの工場を無くして、新しい工場を作るというものでした。

それまでの工場は戦後復興時に再建されたものですが、設備は更新しながら使用をしてきているので問題はなく、古いから新しくするということではありませんでした。
これまでの100年に一度の「再生」を考え、次の100年に向けて会社を「新しく作り直す」という思いが込められています。
同時に行われた本社本店の移転についても、引越しではなく「新たな出発」であるということでした。

また、これまで事業ドメインを「味噌文化の創造業」として、食事における味噌の使い方や食べ方のレパートリーを新しく作ることで味噌を幅広く利用されるように取り組んできました。
そして今回、次の100年に向けて「伝統的な発酵技術でお客様の健康に貢献する」を果たすべき使命:ミッションとして新たに掲げました。
これまでのように、美味しい味噌をお届けすること、日本の食文化である味噌をお届けするというだけでなく、味噌を含めた「伝統的な発酵技術」をお届けし、「お客様の健康に貢献する」という一歩踏み込んだものとなっています。

ビジョンは「お客様の暮らしを、楽しく美味しく健康にする日本一の発酵屋」。これまでに明らかになった発酵食品の免疫力や治癒力を高めるという性質や「生きた微生物を食べる」という伝統的な食文化、現代におけるその価値をわかりやすく伝え、発酵技術の提供によってお客様の健康を守る会社になるというものです。

これら次の100年に向けての新しい考えやメッセージは、近年の食文化と健康、特に「腸内細菌叢(マイクロバイオーム)」による健康や疾患への影響に対する研究が進んだことによって、発酵食品が改めて注目され、これからの時代に求められるという考えが元になっています。
医療技術の進歩によって克服されてきた病気がある一方で、過去にはほとんど見られなかったアレルギーや心の病など、現代になって現れた病や健康を脅かす病原があります。

その原因の一つが食文化の変化であり、具体的には殺菌処理技術の進歩によって、あらゆるものが長期保存あるいは作られてから長時間おいたものでも食べられる物ができてきたことです。
研究が進む中で、人の体には様々な細菌がいて、それらが病だけでなく心の問題からも守ってくれている、逆に細菌がいないことで病気を引き起こすことなどがわかってきました。

つまり、これまでは食事を通して生きたまま細菌などの微生物を取り入れ、それが体の中で活動し病気や心の病までをコントロールしていたわけですが、近年の食文化の変化によって体の中が変化し、これまでにはなかったような病気などが出てきたのです。
この腸内細菌に良いとされるのが発酵食品や野菜を中心とした食生活であり、発酵食品は微生物が生きているからこそ味が変わり(漬物が酸っぱくなるなど)、生きたまま必要な微生物を取り入れてきたのが日本の伝統的食文化そのものだと言えるのです。

青源さんではこのことを400年ビジョンの中心に据え、伝統的発酵食品企業としてこれからの100年に向けて新しい使命を果たそうとしているということでした。

 

青木敬信講師、貴重なお話ありがとうございました。
ご参加いただいた皆様にも改めて感謝申し上げます。