今回は西東京との合同例会として「時代の大きな変化の中、行動を起こした経営者から学ぶ」のテーマで東京、西東京の会員の中からそれぞれから講演していただきました。

金子乳業有限会社 代表取締役 金子 雅一氏(東京経営研究会)

金子乳業さんは足立区で今年で47年になる牛乳・乳製品の卸と宅配をされている、いわば町の牛乳配達屋さんでした。
金子さんは2013年に社長に就任され、経営状態が悪化していた会社を立て直し、さらに牛乳配達屋さんから大きく変化を遂げられました。

捨身の行動から活路を見出す

社長就任前から経営は悪化しており、2011年の東日本大震災で窮地に陥ります。
社長を父親である先代から引き継いだ時は最悪の状況であったということです。
その上、その2013年に先代はこの世を去ります。
業績が最悪の中での社長交代と先代の死という大変苦しい状況を迎え、金子さんは悩みました。

お金の工面で毎月走り回り、従業員の半数を解雇し、でも業界自体が地盤沈下を起こしている以上この先は無いのではないか。
追い詰められた金子さんは、苦しみから逃れるために会社を倒産させることにし、税理士さんに相談をしました。
苦しみから逃れるためと言っても、会社を倒産させると今いる従業員さんを露頭に迷わせてしまう、つまり自分だけでなく関わる人すべての「人生を捨てる」ことなので、倒産という決断に至るまでには時間がかかりました。

しかし、もうダメだと思い、税理士さんに相談に行くと、今度はまったく別の考えが頭に浮かびました。
どうせ倒産という「人生を捨てる」という覚悟ができたのなら、もうこれ以上悪くなることはない、自分の中でやったほうが良いと思うことをすべてやってから潰せばいい。
金子さんの中で何かが吹っ切れて、今まで恐れていたものが怖くなくなった瞬間でした。

半ばやけくそになりながら、プライドを捨ててとにかく行動を始めました。
各メーカーの社長、すべての取引先に自社の窮地の決算書を開示して懇願して回りました。
その結果、3割の企業との取引が無くなりましたが、7割の企業が助けてくれたのです。
なりふり構わずの行動でしたが、それによって業績は徐々に回復していくこととなりました。

誰もやっていないこと

業績を回復させていく上で金子さんが考えたのが「とにかく業界の誰もやっていないこと」をやる、ということでした。
他人が真似できないこと、あるいは「やりたがらないこと」を、現在の周辺事業から探し出すことでした。

まず取り組まれたのが大手メーカーの総販売代理店の権利を得ることでした。
この外資系メーカーの宅配をしているところがなかったため、一手に引き受ける事業計画を立てて、メーカーと銀行へ持ち込みました。
メーカーのトップと交渉したことで計画が通り、これまで中々出してくれなかった銀行から4,000万円の融資が実現しました。
その後、メーカー側の都合で計画は頓挫しましたが、とにかくお金がなかった時なので、これでさらなる手を打つことが可能になりました。

次に取り組んだのが物流でした。
それまでの取引先であった中小スーパーが、メーカーと直取引をする大手スーパーにどんどん買収されることで、卸の仕事が急激になくなっていました。
そこで金子さんはメーカーにかけあい、メーカーの物流を任せてもらう様にお願いしました。
メーカーから商品を購入、スーパーに卸す、という流通形態を物流の仕事に自ら変えるというものでした。
ピンチでの苦肉の策のようですが、物流という新しい事業が加わることで「商流」と「物流」の両方を持つことになり、自分たちが運びたいところの開拓を可能にしたわけです。

さらに、「日遅れ品」というメーカー工場で必ず出るいわば余剰品ですが、スーパーで安売り販売されているこの商品を一手に引き受けることで利益を得られる事業にしようと考えました。
事業として成立させるにはとにかくこの「日遅れ品」を独占することです。
そこで金子さんはまず人気のない売れ残り商品を全部買い始め、次に日遅れ品を選別せずとにかく全部買うことにし、メーカー側の信頼を得ることができました。
さらに自社便を使ってこちらから商品を取りに行くことでメーカー側の負担も軽減させました。
ここまででかなり独占することができましたが、最後にスーパーに買い叩かれないように「日遅れ品」を一社に任せるよう提案、日遅れ品の独占に成功しました。
現在関東の20工場の日遅れ品を一社独占で扱っています。

また、事業の多角化に伴って規模の拡大も図りました。
業界自体は低迷していますが、金子乳業さんでは事業の多角化によって、同業他社の買収をしても十分利益が確保できるということから事業買収をしていきました。
そこには、受け入れる社員さんの生活も継続できるようにすることも買収の目的でした。

不安から得た直感を信じて

業績は順調に回復していきましたが、不安の種が尽きることはありませんでした。
創業事業である牛乳宅配業は宅配ビジネスの多様化もあって低迷。
新しく始めた物流事業でもドライバーが集まらず、事業を中々伸ばせずにいました。

また、本業である卸業は赤字続きで、それを日遅れ品でカバーすることができるようになってはいましたが、日遅れ品は元々日によって売り上げが変わるものなので安心はできません。
さらに、日遅れ品は確かに新しい収益の柱になってはいますが、メーカー側は減らす努力をし、国としても食品ロスを減らす方向にある。
先行きが不透明なものが収益の柱となっていることは不安でしかありませんでした。

先代が亡くなり、倒産寸前のところから必死になって業績回復に努め、何とか新しい事業も軌道に乗っている。
でも、まだ先行きは不透明で、いまの状態がいつまで続くかわからない。
今の事業を活性化できるものはないか、金子さんの模索は続きました。

長年続けてきた宅配を通しての地域の密着度や新たに加わった物流や販売力という「強み」を生かせるものはないか。
そんな事業の模索をしていたある日、ふとテレビで見た「食パン専門店」のニュース。
金子さんの脳裏にある思いが浮かびました。

「牛乳と一緒に、朝、焼きたての食パンをお届けしたら喜ばれるかもな」

これは誰もやっていないし、これができるのは自分のところだけだと確信した金子さんは、この無謀とも思える事業に挑戦することにしました。
結果は大成功でした。

今年の1月に本社ビル1階を改装して「牛乳食パン専門店みるく」をオープンしたところ、初日から200人の行列ができました。
その後もそのユニークな成り立ちと「牛乳食パン」という珍しさから色々なメディアで取り上げられ、予想を遥かに超える反響と売り上げとなりました。
1月のオープン以降、世の中はコロナ禍に入って行くことになりましたが、「みるく」はステイホームの中ますます売り上げを伸ばしていきました。

一方で金子さんはコロナ禍において、自社の使命と理念に立ち返ったと言います。
食品の流通は生活に欠かせないインフラであり、安全・衛生管理を徹底して、食品の流通を止めてはいけない。

そして、5月には最高売り上げ800万円を達成しました。
「みるく」に確かな手応えを感じた金子さんは、同業の牛乳販売店やコロナ禍で苦労している飲食店に事業パートナーになってもらい、共に成長していくことを考え、FC事業を始めました。

金子さんはコロナ禍において、とにかくスピード感を持って取り組むことを意識しました。
FC展開だけでなく、新商品の開発や新業態の開発、そして出店と、このコロナ禍の中で苦しんでいる会社やみるくの食パンを求めている人にとにかくはやく届けたい、広めたいという思いで事業に取り組んでいます。

捨てたものと得たもの

倒産を決意し、人生を捨てる覚悟をしたのが現在の自分の原点だと金子さんは言います。

「どうせ潰れるんだったら、なんでもやってやれ!」

この精神があったからこそ、コロナの中でも怖さを捨てて、攻めることに集中できたとも。

プライドを捨てることで事業を加速することができました。
知らないことは恥ずかしくない、わからなければ相談し、勉強し、知っている人に聞けば良い。

でも、金子さんはまだ結果として何も得ていないと言います。
ただ、利益を確保し社員さんに十分な報酬を出せる様になったことでやる気も出て人間関係は良好になった。
それ以上に社員さんと共に新規事業を立ち上げ成功させる、その体験を得たことで自主的に動くようになってきた。
物心ともに豊かにできるようになったことで得られたのは社員さんの笑顔でした。

倒産寸前だったころ、逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、倒産させる勇気もなかった。
倒産を決意し、守るものをすべて捨てる「覚悟」をした時、恐れるものは何もなくなった。
あの覚悟が無ければ今の自分はない、だからあの時の苦しみは神様がくれた試練であり、成長させるために与えられた機会だったと金子さんは教えてくれました。


有限会社ティー・カンパニー 代表取締役 月田 賢氏(西東京経営研究会)

ティー・カンパニーさんは国分寺および調布で飲食店を展開する会社で、月田さんは3年前に西東京の会長もつとめられました。
今回お話するにあたり、その3年前の会長就任時に会長職を休んでまでアメリカに修行に行った時の話をしてくれました。

アメリカへの出店を考えていた月田さんは、ちょうどその時にアメリカで和食のお店を開くという方に誘われて、一スタッフとして渡米しました。
ところが、開店したのは良いのですがお客さんが来ない日が続き、それでも月田さんは他のスタッフと一緒に掃除をしたり一所懸命働きました。
あまりにもお客さんが来ないため、経営者魂に火がついた月田さんは何も手を打たないお店の経営者に色々と意見を述べました。
でも結果的にその経営者から疎まれ、お店を辞めることになり、1年で帰国しました。

スタッフとして現場に立った月田さんはこのことから「現場の社員さんはいくら頑張っても経営的な手を打つことはできない、手を打つことができるのは経営者しかいない」ということを改めて感じたと言います。

事前の一策は事後の百策に勝る

経営者が決断をし手を打っていかなければいけないのですが、事が起こってからではなく、事が起こる前に予測を立てて手を打つ、種を蒔いておくことが大切だと月田さんは言います。

月田さんは昨年、2020年のこと、つまりオリンピックイヤーのことを考え、色々と手を打っていました。
その一つが外国人向けのサイトでの料理教室です。

オリンピックを機に外国人観光客がたくさん来ることを考え、またその外国人観光客が日本食に興味を持ってもらう、あるいは興味のある方向けにサイトでの料理教室を始めました。
また、オリンピック開催時には夜の売り上げが下がることを考え、ランチの営業をスタートさせていました。
現在流行っているUber eatsも国分寺市が対象となる前から申請をして、昨年の10月から始めていました。
さらに、ゴールデンウィークのバーベキュー需要を考えて昨年からその場でお店の味が味わえる真空パックした食材セットを考案し、準備していました。

今年に入ってコロナの影響で外出自粛が始まると、従業員さんの健康を考えてお店の営業もストップさせましたが、これら事前の策が功を奏し、お店を閉めていても逆に忙しいほどだったということです。

また、この食材の通販は、多くがコロナで会えなくなった離れて暮らす家族へ届けたいという方が多く、その届けたいというご家族の代表としてそれぞれの思いを考えつつ、時には涙を流しながら一つ一つメッセージカードを書いて送ったということです。
月田さんの故郷である福島で疫病退散の伝説がある「赤べこ」と有名になった「アマビエ」が一緒になった、お客様への想いをのせたメッセージカードだということです。

不易流行

月田さんは今回のコロナ禍において改めて不易流行というものを気付かされたと言います。

これまで学んできた通り、理念や想い、道徳や義理人情というのは、世の中がどれだけ変化しようとも変わらないものであり、特に人との繋がりや縁というのはこれまで経験した苦難の中でも「ピンチをチャンスに変える」ことができる重要な要素で、人との交流の中から新しいアイデアなどが生まれてきたということです。

一方で、今回のコロナ禍において変わるものについても大きな気づきがありました。
それは人との直接的な交流が制限されるという状況においては、これまで通りの伝え方や人との繋がりの手段は変わっていきます。
制限された中でも人との繋がりを可能にしたインターネットなどの様々なテクノロジーでした。

これは消費者にとっても言えることで、お店に行けなくとも商品が購入できたり、画面越しに人と会うこともできる。
どれだけ離れていてもテクノロジーの力でコミュニケーションが取れるし、それを利用することで今まで以上にその輪が広がりました。
つまり今回のコロナ禍では苦労と同時に、これまでのやり方だけではいけないということから、結果的に方法も手段も多様化することとなりました。

飲食店であれば昼と夜の営業にキッチンを使った料理教室が一般的な販路でしたが、デリバリーや通販、店頭でのお弁当販売、さらには近隣のお店へ卸すという方法もありました。
また、販売促進もこれまでは飲食店向けの検索サイトが中心でしたが、HPや様々なSNSでの自社アカウントからの発信、通販ページやシェアリングツールからの発信など、広告会社手動の「広告宣伝」から自社主導の「情報発信」に変わっていきました。

月田さんはこのコロナ禍での経験から新たなスタイルを考えています。
お店という固定されたところを解放し、いわばインドアからアウトドアへ展開を広げていこうとしています。
これは単に外に出るということだけでなく、世界にも目を向けていくということでもあります。
また、地方活性化やフードロス、持続可能な農業など食に関する社会の問題にも取り組み、来年はクラウドファンディングも始めるということでした。

 

金子雅一さん、月田賢さん、貴重なお話をありがとうございました。
ご参加いただいた皆様にも改めて感謝申し上げます。