その時代を生きている人たちにメッセージを伝えたい

1979年から商売を始め、38年目ですが、まだまだ発展途上です。

時代という大きな流れの中で商売をしているので、時代が大きく変わった時にその影響を受けます。
これまでも時代の変化はありましたが、特に2011年の東北大震災は誰もが影響を受けました。
ものの価値観が大きく変わりましたが、だからこそ私は毎年毎年が創業だと思って仕事をしています。
毎年1月1日に「今年が創業だ」と考えれば打つ手はいくらでも出てくるし、そうでなければ40年、50年と続く仕事はできないと思います。
これまでのことは単なる積み重ねであって、過去のことなので、結果として少しでもプラスで残っているならそれで良し、とにかく終わったことはもういい。
毎年、あるいはピンチになった時に「毎日が創業だ」と原点に戻ってやることで、本来「無い無いづくし」の創業の時から考えれば一緒に働く仲間もいれば目指すべきところもわかっているわけですから、何も怖いものはありません。

日創研のSA、SC、LTを受け始めたのが1996年の4月ぐらいから。
当時は店を4軒ほどやっており、新横浜の「ラーメン博物館」にも出店していました。
売上が4〜5億円ほどだったと思います。
45歳になるところでしたが、自分に足りないのは何かを考えながら仕事をしていました。
それは「経営者の資質」だろうと思っていました。
4〜5軒のお店なら勢いで、我流でもどうにか運営はできましたが、中身は薄かったと思います。
そこで勉強しようと思い、日創研の門をくぐったわけです。
その時に「10年目標」を新たに立て、それを実行していくことで事業は形になっていきました。
その当時は60歳までに20億円ぐらいの規模の会社になれれば良いと考えていました。
現在は世界中の店舗を合わせて200軒ぐらいになり、売上が220億円ぐらいになりました。
けれども、売上規模よりもまだ「夢」があります。
私たちのお店には現在年間2200〜2300万人のお客様がお越しになるのですが、これをこの10年の間に年間1億人の方に来て頂けるようにしたい、そんな仕事ができる会社を作りたいというのが今の「夢」です。
現在世界で72〜3億人の人がいて、そのうち経済的に発展した国の人は20億人ぐらいかもしれませんが、73分の1だと考えれば楽しいですよね。
丼一つ一つに「ありがとうございます、今日も幸せな一日を送りましょう」だとか、箸袋に「希望を持って明日を生きよう」「友達を大切に」「家族を大切に」などとメッセージを、世界中のお店のあるその国の言葉で書いていく。
これからはAIが入ってきて職場環境は変わるかもしれませんが、「意志」さえあれば何かしらメッセージを発信していくことはできます。
それが今一番やりたいことです。
その時代を生きている人たちに飲食という仕事を通して、1万分の1の人にでもメッセージを伝えることができれば、同時に一緒に働く社員さんやアルバイトの人たちがその思いを共有して皆が「よし、やろう!」となってくれる、そんな会社を作ることが理想であり「夢」です。

3つの目標と天職さがし

河原さんは1994年に新横浜の「ラーメン博物館」に出店されましたが、これが事業をやって来た中で最大の「転機」であったということです。

当時は福岡博多で「アフター・ザ・レイン」「博多一風堂」「居酒屋 松の湯」郊外型ラーメン店の「玄海ラーメン爽風亭」の4店を手掛けていましたが、河原さんいわく、当時は「一風堂」以外の3店は「経営しているとは言い難い状況」でした。
その理由は自分自身が未熟だったからだと河原さんは述懐されます。
それまでは博多でしか仕事をしていませんでしたから、初めて新横浜に出店することで首都圏というマーケットを知り、色々なことを知ることで自分の未熟さを思い知ったのが「ラーメン博物館」だったのです。

河原さんは進学高校の美術教師だった父親と専業主婦の母親、3人の兄はそれぞれ国際線のパイロット、新聞記者、大学教授という仕事をされている家族で、河原さんは大学卒業後はスーパーで流通の仕事をされていました。
そんな中、河原さんは仕事の中で不祥事を起こし、裁判で執行猶予つきの判決を受けました。
河原さん25歳、父親は57歳でまだ定年前、それどころか有名芸大、美大に送り出した生徒さんがたくさんいるという人気の美術教師でしたが、その事件の責任を取って教師を辞められました。
現在65歳を迎えようとしている河原さんは、その頃のことを思い出し、自分の子供のこととは言え本当に申し訳ないことをした、と涙をこらえながら述懐されました。
悔やまれるのは、生徒さんに夢や希望を持たせて送り出すという仕事が本当に好きだった、教師が父親の「天職」であったこと、それを捨てさせてしまったことでした。

それから1年半後、兄が学生の頃に友達と作った小さな店が、閉めてもう半年も経つというその物件で商売をしてはどうか勧められます。
26歳の時、30万円ほどの資金で始めたのがレストランバーというには小さい5坪ほどのお店「アフター・ザ・レイン」、これが河原さんの事業の始まりでした。

河原さんは事件で取り調べを受けている時に、刑事さんから「小人閑居して不善をなす(人は暇を持て余すことで悪いことをしてしまう)」ということをよく言われていたことを思い出し、何か決め事をしなければまた同じことをしてしまうかもしれないと考え、人生で初めて目標立てられました。
まず「3年間休まない」ことで、27歳の手前だったのでそうすれば「30歳でもう少し賑やかな所に移転する」こと、「33歳でもう一軒店を持つ」、そして「35歳でさらにもう一軒増やして『天職』を見つける」というものでした。
創業の目標の中でこの「3年間休まない」というのが一番良かったと河原さんは言います。
仕入先さんとのやり取り、銀行との取引き、そしてお客様の接し方といった仕事の基本が、この3年間休みなく働くことで学ぶことができたそうです。
今でも独立される若い方からアドバイスを求められた時に「3年間休まない」ことを伝えるそうですが、やった人はいないません。

3年間休まず働いたことで、その後も目標通りに移転と新規出店、33歳で「一風堂」35歳で「玄海ラーメン爽風亭」を出されました。
35歳の時の目標は出店と共に「天職」を見つけることだったので、この「郊外型ラーメン店」というのがそうなのか、これをチェーン展開することがそうなのかと考えましたが、自分の中で興味が湧きませんでした。
その頃「年中無休」というのを掲げ、朝は朝食メニューから閉店の深夜1時まで、それこそお店に寝泊まりしながら働くという中で、「天職」について考えることができなくなっていました。
そうこうしているうちに、36歳の時には「松の湯」という居酒屋を出し、4つのお店を流れのままに「何となく」やっている状態になりました。
4店とも立ち上げ当時は順調に伸びていきましたが、河原さんが次のことを考えるために現場を離れると売上は落ち、色々な問題も起きてきました。
組織化できていないことによる弊害で、ミーティングすらまともにできない状態でしたが、それを見て見ぬ振りをしていました。
そのよう状態で運営は悪化していき、資金が回らなくなってきました。
河原さんはこれまで一度も商売をやめようとしたことはありませんが、この時、40歳前のこの頃に初めてのお子さんができたこともあり、店を手放して他のところでうどん屋でも始めようかと考えたほど悩んだ時期でした。

ドアの向こうにあった夢と希望と愛

そんな苦しい時に救いの手のように差し出されたのが新しくできる「新横浜ラーメン博物館」への出店依頼でした。
1993年10月、当初しぶっていた出店依頼でしたが、館長でこの企画者である岩岡洋志氏の度重なる要請に応じて、現地に赴くことになりました。
初めての新横浜で待っていたのは、バブルの残骸のような荒れた小さな土地の数々と開発前でまだ何も無い寂しく暗い場所でした。
博物館もまだまだ建設途中で、先の予想がつかない状態のところへ180万円という高額な家賃が提示されており、河原さんの中ではほぼ断る方向に傾いていました。
ところが、準備室というプレハブの事務所に入った途端、河原さんは衝撃を受けます。

「ドアを開けると、そこにあったのは”夢”と”希望”と”愛”でした!」

準備室のメンバーは岩岡さんの母校である青山学院大学のラグビー部の先輩後輩という間柄の人たちが集まっていたために、壁には「開館まであと120日!」「努力に勝る天才なし!」といった”熱い”標語が貼られ、誘致に訪れたラーメン店と食べたラーメンの数がグラフになって張り出されていたり、狭く裸電球だけのその部屋は成功に向けて一丸となって働く人たちの熱気に満ちていました。
その様子を見た河原さんは胸が熱くなり、思わず涙が溢れたそうです。
自分が見失っていたものは、創業した時にはあったはずのこの「夢」「希望」「愛」だったことに気づきました。
河原さんは「一緒にやろう」と即決されました。
駄目だったら、それはその時また考えよう、とにかく今は一緒に最後まで戦おう、と決められました。

1994年3月6日、新横浜ラーメン博物館がオープンしました。
結果は予想を遥かに超えた8,000人もの人が集まり、閉館までに入りきれない人が出るほどの盛況ぶり。
河原さんはこの「ラーメン博物館」出店までの取り組みの中で2つのことを学んだと言います。
一つは「事業の成功には夢と希望と愛が必要」だということ、もう一つは「目標が必要」だということです。
創業当初に3つの目標を立てたことで、35歳までは順調に事業を発展させることができましたが、35歳の時に「天職」を見つけることはできず、そのまま40歳まで目標のないままに仕事をしてきました。
「目標はなくても仕事はできるが、目標が無いままだと徐々にダメージが生じいずれダウンしてしまう」というのが仕事と目標の関係だということでした。
この2つのことに気づき、それが今の自分に足りていないということを学ばれた河原さんは「ラーメン博物館」出店した翌95年から学び始め、96年4月に日創研の研修を受講されました。

そこで、新たに「田舞徳太郎の前で講演をする」という目標を立てられ、2004年にはその目標を見事に果たされました。
そこで一番大きかったのが「10年目標」を立てられ、1997年1月から2007年までに達成させるべき目標を立てられました。
一つが「力の源通信」というフリーペーパーを作り、隔月で年6回発行、10年で60冊作ること。
そこで4人の人を紹介し、年24人、10年で240人の人を紹介する。
もう一つは年1冊本を出版する、10年で10冊の本を書くこと。
本を書くと言っても特にネタがあるわけではないので、ネタ探しに行ったり人にあったりしなければなりません。
さらにもう一つが、講演を年10回、10年で100回行うこと。
この3つの目標を決めた当時は、いずれも達成させるには程遠い状態でしたが、その時にその目標を立てて果たしたことで、今日もこうして皆さんの前で話ができている、ということでした。
このように10年あるいは3年でも良いから、とにかく取り憑かれたように無我夢中で目標達成に取り組むということ、その期間を過ごしたか否かでその後の経営に雲泥の差を生む、と河原さんは言います。
ただし、10年もの間無我夢中で働くには体力が必要なので、30代から40代、遅くとも50代の半ばまでにその働きができれば、誰でも自分が望む姿にはなれるだろう、ということでした。

また、本を書くというのもとても良かったそうで、特に自分を内観した内容のことを書くことでより一層自分のことがよくわかるようになったそうです。
良いところも悪いところも見えてくるわけですが、特に悪いところ弱いところを如何に変えていくかというのが経営者には必要だということでした。
その一つのやり方として、社外の監査役もお願いしているアイ・ケイ・ケイ株式会社の金子社長の食事前の手を合わせての挨拶、1分ぐらい長く手を合わす様子を見て、その訳は聞かれなかったのですが、河原さんも真似ることにしました。
1分間というのは「いただきます」と言うことだけだとても足りないわけですが、それを河原さんは内観と同じ要領で、ご先祖から始まって家族や親戚、さらに仕事で関わりのある人達まで思い描いて感謝をすると軽く1分ぐらいになりました。
これを、その時の状況にもよりますが、できるだけ三度のうちの一度は食事の時に一人で行うことにしました。
すると、普段会わない親戚、あまり関係性が思わしくなかった人に対しても久しぶりに会った時に自然とコミュニケーションがとれるようになったということです。
それは、毎日手を合わせて感謝をすることで、どんな相手に対しても「許す心」を持てるようになったからだそうです。

「ラーメン博物館」に出店したことで学んだことが実はもう一つあるそうです。
それは、他のお店のやり方を垣間見ることで学び、自分の技術の幅が広がったことでした。
これは、もう10年も前に当時出店していた方たちと会った時に話をして許してもらったことではあるのですが、普通なら考えられないことです。
どのような材料を使い、どの様な方法で調理していくのか、ライバルとは言え当時一緒に仕事をしていた「仲間から学ぶ」というとても貴重な経験もされました。

「ラーメン博物館」出店以降、河原さん筆頭に会社でも学ぶことで経営が軌道に乗り、組織が出来上がっていきました。
特に2003年以降に独自の社内研修を次々と組み立てられ、2007年には「力の源アカデミー」として研修での基本フレームを確立されました。
さらに2009年には大分県の広大な土地で農作物生産と併設する宿泊施設での宿泊研修も始め、現在は社内で総合的に研修が行われるようになっています。

自分の中のもう一人の自分

また、2008年には念願のニューヨークへ国外初の出店を実現されます。
河原さんは実はこの前年の2007年に、10年来のパートナーと別れを告げ、組織を大きく作り変えられました。
河原さんには「たくさんの人に何かを伝えていける組織」、そして「一人ひとりが成長していける組織」を作るという夢があり、その実現に向けて店舗の展開と社内研修制度を作ってきましたが、そのパートナーとは意見が合いませんでした。

その組織を5年以内で作るという目標を立てられ、人材募集には多額の費用も投入しましたが、パートナーと別れたことで社内が一時的に混乱をし、さらに2011年には震災が起こったことで全国的に混乱したことで、結果として5年では成し遂げられませんでした。
そして、この2017年に上場を果たし、結果として今日の組織を作り上げられました。
ただ、河原さんは10年かかってできた現在の組織も完成形ではなく、「スタートラインに立つことができた」と言います。

河原さんは言います。
「人は自分の中にもう一人の自分が居て、生まれてからずっと自分のことを見てきたのは両親ではなく、この内側に居るもう一人の自分なんです。
そして、その彼もしくは彼女が一番自分を応援してくれます。
そして、彼、彼女の前では嘘はつけない。
一番自分のことを知っているのは内側の自分、この内側の自分を味方につけることが、仕事をしていく上でとても大切なことだと思っています。
だって嘘がつけないんですから。
その彼がいつも見ている。
その彼との会話の方法は、目標設定と達成だと思っています。
プラン、ドゥ、チェック、そしてまたリアクションを繰り返す。
達成率は100%になることは無いかもしれない。
しかし、そこに向かっていき、達成率が70%から80%になり、85%、90%に上がっていく。
彼がやっと僕のことを認めだす。
”おう、河原、お前なかなか信用出来るやないか! ちゃんとやりよるやないか!” と。
そう、彼、彼女が言ってくれた時に、初めて僕たちは独り立ちができる。
その信頼を得ることが、他人の周りの信頼を得るよりももっと大切だと思います。
そのことができないと、他人との信頼関係なんか結べないんじゃないか。
そういうことをよく意識します。

仕事というのは半分は修行みたいなもの。
楽しい修行だな、と。
そんなことさせてもらえるから幸せだな、と思います。
夢中になれる、一生懸命になれる、結果が良くても悪くても自分がしたこと。
なるべく失敗したくはないけど、失敗することがある。
身の丈に合わないことはやっぱり具現化できない。
見栄を張っても一緒。
少しでも自分を高めるしかない。
小人であり凡人ですから、なるべく感謝ができるような人間になることに努めていきたいと思っています。
そういうことを忘れたら嫌だなと思います。
まだまだ伝えることが難しくてできません。
社員の人たちにも、あるいは家族の人たちにもまだまだ伝えることが出来てないかもしれません。だけどもそれをやっていきたいと思います。
仕事でいちばん大切なのは継続することでしかないと思っています。
継続することだけ。」

ここで「暖簾分け制度」についてのビデオを見せて頂きました。
若い人たちが熱く社長の前でプレゼンをしている様子が映し出されました。
2016年時点で暖簾分けの店主の人数が16名、店舗は28店舗、これを2025年までに100人にするという目標が出されました。

さらに河原さんは言います。
「私はあまり知識はありません。
ラーメンのこと、飲食のこと、それを通してみた人のこと。
英語が話せるわけでも、ダンスが出来るわけでもない。
でも最近よく思うのです。
一点のことを深く掘っていく、深く掘っていって鋭い針のようになっていけば、どこかですごい広い光景に出会えるんじゃないかと。
その光景は絶対見えるはずだ。
一点の穴でも深く掘ることも、億万の知識を手にしてものを見るのも、最終的にはあまり変わらないのではないかと思います。
一つの穴を深く掘っていって仕事をしていきながら、自分の人生を進めていきたいと思います。」

教えることではなく伝えること

最後に社員研修の一つでもある「一風堂workshop」のビデオを見せて頂きました。
河原さんは幼いころ、4人兄弟の末っ子として少しでも多く食べたいために母親の炊事の手伝いをしていたそうですが、それが楽しかったし親や兄弟からも褒められることで料理が好きになったし、それが現在の料理人としての原点だということでした。
そのことからも、その喜びや楽しさを伝えたいという想いを強く持ってこれまで仕事をされてきました。
この取組みもその想いの一つの表現方法だったわけですが、研修とはいえ出張して小学生にラーメン作りを教えるなどいうことは恐らく前代未聞のことですから、社内の反発があったであろうことは容易に想像できます。
今回のビデオは対外的というよりも、社員さんに河原さんの想いを伝えるために作られたものですが、経営者そして働く者としての志や想いの大切さを知ることができる素晴らしいものでした。映像はお見せできませんが、そこで伝えられている言葉をご紹介します。

食の大切さとつくる楽しみ
食べる悦びを届ける
一風堂workshop

小学生を対象に厨房車を使って、ラーメンや餃子の手作り体験を通し、子供たちと料理をつくること、食べることに対する感動を共有する。

〜伝えたい想い〜

自分たちでつくる楽しさ
みんなで食事をすることの喜び
食への感謝

〜社員の学びの場〜

リーダー力を養う
企画演出力を身に付ける
教えることではなく、伝えるということ
目標達成力・統率力を身に付ける

〜子供たちの笑顔が仕事の本質を教えてくれる〜

”料理って、こんなに楽しいことなんだ”
ラーメンをつくる喜び、食べることの喜び
私たちの喜び

子供たちの「ありがとう」の気持ちが私たちの明日への活力!
食の大切さとつくる楽しみを届けるその先には
子供たちの笑顔が待っている・・・
子供たちが1つでも何かを感じ、未来に向かって羽ばたくきっかけに・・・

一風堂workshop実績
総計436ヶ所 35,009名

一風堂workshopの活動が前身となり、2010年5月5日に常設型の粉食体験型施設「チャイルドキッチン」のOpenへと繋がりました
チャイルドキッチン来場者数合計(2010年5月〜2015年12月)
41,078名

現在ではグローバルでチャイルドキッチンを展開!

〜想いを強く持って行動に移し形にしていく〜

2003年3月、一風堂ワークショップは社内研修の一環として始まりました。
当初、この活動の本当の意味を深く理解していた人はいったい何人いたでしょうか。
「どうせ社長の道楽じゃないか。」
「ただでさえ忙しい毎日なのにまいったなぁ。」
そう考える人が大半だったと思います。

大切なのは「続けること。」
振り返ってみてください。
私たちは実に3万人以上もの笑顔と出会ってきました。
すべては想いを強く持って行動に移し、形にしていくというその覚悟があったから。
さらには、何が何でも継続していくというその勇気があったから。
その機会を創出したのはまぎれもなく私たち一風堂です。
創業から31年目に入った今年
workshopの主人公は本当の意味でみなさん一人ひとりです。
あなたの熱い想いを、自ら考え、動くことで形にする、まさに今がそのチャンスです。

 

河原成美会長、心のこもった熱いお話を本当にありがとうございました。

そして、ご参加頂いた会員およびその社員の皆さまにも改めてお礼申し上げます。

 

次回7月例会は