今回は2020年1月新春例会として千葉ロッテマリーンズで投手コーチをされている吉井理人さんをお招きし、プロスポーツの現場でのコーチングについてお聴きしました。
吉井講師は1965年に和歌山県で生まれ、幼少の頃は野球以外にも柔道や陸上の円盤投げもやっていたそうですが、1979年の夏の甲子園で行われた伝説の「箕島高校対星稜高校延長18回」という試合を見て感動、野球一筋になりました。
高校は当然その和歌山県立箕島高校に入学、野球部に入部して3年間で二度甲子園出場を果たし、3年生の時にはエースとして県大会から甲子園で敗退するまで投げました。
その後はドラフト会議で近鉄バファローズ(現オリックスバッファローズ)から2位指名を受け入団、5年目に一軍に定着し主に抑え投手として活躍しまました。
その後、ヤクルトに移籍し、野村監督の元で3年の間に2回も日本一を経験し、ご自身も3年間10勝以上という好成績を残しました。
そしてFA権を取得後はメジャーリーグに挑戦、ニューヨークメッツに移籍され、5年間で3球団(コロラドロッキーズ、モントリオールエクスポズ)を渡り歩き、通算32勝をあげました。
実はこのメジャー挑戦の時に日本の他球団からも声がかかり、多額の年棒が提示されたのですが、吉井さんは海外での経験を優先し渡米しました。結果的に、そのアメリカでの経験がとても良かった、文化の違いに戸惑いながらも「毎日が小学1年生」のごとく毎日ワクワクしながらの生活によって人生観が変わったということでした。
その後は日本に戻って、オリックスブルーウェーブからオリックスバッファローズ(仰木監督)を経て、千葉ロッテマリーンズで現役引退、2008年に日本ハムファイターズのピッチングコーチに就任。
当初はコーチという仕事に興味がなかったそうですが、やっているうちにコーチが選手にとって非常に大きい存在であることに気づき、日本ハムを退団し筑波大学大学院に入学してコーチの勉強を始めました。
大学院2年目の時に、同じ時期に入学した工藤公康さんがソフトバンクホークスの監督が決まり、吉井さんはコーチとして呼ばれ、大学院に在籍したままソフトバンクのコーチに就任。そしてその年のソフトバンクのリーグ優勝、日本一に貢献。でもシーズンオフには修士論文の提出があったために惜しまれつつ退団しました。
ところが、修士論文が思った以上にスムースに進んだことで空白が生まれ、ソフトバンク退団のタイミングで日本ハムがコーチの打診をしていたため、タイミングよく日本ハムのコーチに就任することになりました。驚くことに、その年に日本ハムはリーグ優勝、日本一になりました。このことから、ソフトバンクファンから「日本ハムのスパイだったんじゃないか」と言われたとか。
その後、日本ハムを退団した吉井さんに千葉ロッテマリーンズから声がかかり、現在に至るまで千葉ロッテでピッチングコーチをしています。
選手と指導者の関係
コーチというのは選手の役に立たないといけませんが、吉井さんは自分の失敗した経験から教え方や教える内容以前にまず選手とのコミュニケーションの取り方がとても重要だと教えてくれました。
一つは吉井さんがプロに入って初勝利をあげた時のことです。ゲーム終了後に寮に戻って初勝利の余韻に浸りながら気分良く食事をしていたところ、2軍の監督が現れ勝利に浮かれる吉井さんに釘を刺すような言葉をかけてきました。その上、手を上げられたことに腹を立てた吉井さんは監督に食ってかかり、慌てて周りが止めに入るという出来事がありました。
吉井さんは今となっては当時の2軍監督が初勝利に浮かれる新人に忠告をしたかったということがわかりますが、それでも選手とのコミュニケーションの取り方があまりに稚拙であったことが原因だったと振り返ります。
また、吉井さんがベテラン選手になった頃にもこんな出来事がありました。試合前のブルペン(ピッチャーが投球練習をするところ)で投げ込んでいたところ、後ろで見ていたピッチングコーチが一言「お前そんな投げ方やったか?」と言ってきました。すでにベテランになっていたので何を言われても気にならないと思っていたのですが、試合直前のコーチの何気ない一言が吉井さんを混乱させ、その日の試合は初回にノックアウトされました。
同様のことが実は吉井さんがコーチになった時にもあり、今度は自分が選手に言った一言でその選手が調子を崩してしまったという経験もしました。
これらのことから、吉井さんは「コーチは教えすぎてはいけない」と言いますが、これは多くを教えようとすることで余計なことまで伝えてしまいかねないからだということです。また、その根本には選手とコーチの間に質の高いコミュニケーションが必要で、質の悪いコミュニケーション、つまり選手とコーチの「感覚のズレ」を無視して一方的に伝えたり教えたりするというやり方では選手をダメにしかねないということでした。
次に吉井さんがこれまで出会った監督から見る「指導者のサポート」について教えてもらいました。
最初は箕島高校の名監督と言われる尾藤監督です。当時の甲子園では「尾藤スマイル」と言われ、試合中はベンチでずっと笑顔でグラウンドの選手を見守る、というスタイルでしたが、吉井さんが言うには、それは試合の時だけで普段は大変厳しかったといことでした。
特に高校生の指導者だけに野球のことよりも普段の生活態度や社会生活における指導が厳しかったということです。
一方で野球はと言えば、指導はほとんどせずに練習メニューからすべて生徒に任せていました。吉井さんは、監督は野球のことを知らないのではないかと思うぐらい、監督から野球について教えてもらったことはないということです。でも、これも今となっては、高校生という「今から」の子供達に対しては社会人になってから必要なこと、生活態度や一般常識さらには「主体性」というのを身につけさせようとしていたのだということがわかると言います。
次はプロ野球の監督、最初に入団した近鉄バファローズの仰木彬監督です。吉井さんが入団された時はヘッドコーチだったのですが、吉井さんがまだ1軍と2軍を行ったり来たりしていた頃、球場でバッタリ会った時急に「来年いいところで使うからな」と言って去って行きました。それを聞いた吉井さんは、今はまだ鳴かず飛ばずだけども来年は活躍できる、と勝手に思い込み、それから俄然練習に励みました。
すると、確かに次の年仰木さんが監督に就任し、吉井さんはクローザーとして大活躍しました。当時仰木監督の采配によるチームの活躍を「仰木マジック」といって、近鉄は1989年にリーグ優勝を果たしています。
吉井さんも仰木監督は選手のモチベーションを高めるようなコミュニケーションと采配ができる監督だったということです。
次にヤクルトスワローズの野村克也監督ですが、吉井さんにとっては馴染みの薄い監督だったので最初はどんな方なのかよくわかりませんでした。でも、やっていくうちにとても情に厚い人で、選手の要望をよく聞いてくれる監督でした。
また、負けて腐っている時でも叱るのではなく、冗談で和ませてくれるような人情味あふれる監督だったということで、周りからは逆にそれが弱点だとも言われていたそうです。
吉井さんの思い出にあるのがリーグ優勝がかかった一戦で、先発をしていた吉井さんは最後は当時のクローザーである高津臣吾投手(現ヤクルト監督)に任せようと思っていましたが、非常に気持ち良く投げられて点差も10点以上あるゲームだったので最後まで投げたいと考えました。
実はこの話には伏線があり、近鉄時代にやはり優勝がかかった一戦で最後の抑えに出場すると言われていたのに仰木監督は当時のエースだった阿波野秀幸投手に最後まで投げさせ、悔しい思いをしていました。
それだけに、ヤクルトでは最後まで投げたくなり、野村監督に直訴すると「好きにしろ」と言われて最後まで投げ、見事優勝投手になりました。
ニューヨークメッツのボビー・バレンタイン監督は、選手が活躍できる環境を一生懸命作ってくれる監督でした。
渡米後、先発の枠が空いていなかったのですが、バレンタイン監督の構想の中に吉井さんが入っていたようで、開幕ギリギリまで調整をして無事に先発の一人としてメジャーデビューすることができました。
初めての当番の時は「君にとって今日は特別な日だから結果は考えず楽しんでこい」と言ってくれたお陰で、楽しんで投げることができました。その後も何かと気にかけてくれたことで、海外という初めての環境においてものびのびと野球を楽しむことができたということでした。バレンタイン監督がメジャーの最初の監督で良かったと吉井さんは振り返っていました。
次に現在のコーチという役割において影響を受けた指導者について教えてもらいました。
最初は権藤博コーチです。吉井さんが一番影響を受けた方で、『教えない教え』という著書も出されています。このタイトル通り、権藤コーチもほとんど教えることがないコーチだったということです。プロなんだから自分で考えてやれ、ということですが、これは選手に「主体性」を持たせることでそれぞれが特徴ある魅力的なプロ野球選手になるためのことでもあったと吉井さんは言います。
権藤さんは現役の頃、非常に酷使され、同時に間違った指導で肩を壊してしまい、わずか3年で投手から野手に転向したという経験も影響しているのかもしれないと吉井さんは言います。
ボブ・アポダカ投手コーチはニューヨークメッツでとても指導者として影響を受けた方です。メッツに入団して間もない頃、春のキャンプで練習をしていても何も言ってくれない。全然アドバイスくれないな、と思っていたらある日いきなり寄ってきてこう言いました。
「吉井のことを一番知っているのは吉井なんだから、吉井が私に話してくれ、その上で今後のことを決めよう」
日本ではコーチが「あれやれ、これやれ」という指導スタイルだったので、これを聞いた時は本当に驚いたと吉井さんは言います。
実は先述の権藤さんもメジャーにコーチの修行に行ったことがあり、その時バッティングも良かった権藤さんはあるバッターの練習に立ち会いました。そのバッターはライト方向へ打つことができずに、何度も何度も練習をしていたのですが、現場のコーチは「右に打てるようになったら呼んでくれ」と言ってその場を離れました。驚いた権藤さんはその場に残って選手がどうするのか見ていました。でも打ち方がわからないので何度やっても右に打てないので、見かねた権藤さんが選手に打ち方を教えました。すると途端に右方向へ打てるようになり、その選手は喜んでコーチを呼びに行きました。するとそのコーチが権藤さんのもとに来て、打ち方を教えたことを非難しました。
「お前は一人の選手の成長を止めた。選手は自分で考えてできるようになって初めて技術を習得するのであって、教えた技術はすぐに忘れてしまう」
選手が自分で考えて、自分の責任のもとにどうするかという思考法であり、つまり「主体性」を鍛えていこうというコーチングなのです。
このことが権藤さんの心に残り、日本に帰ってから『教えない教え』のスタイルになったということでした。
このことから「コツ」というのはどこから手に入るのか、を研究している人が筑波大学大学院にいたそうです。「コツ」は突然手に入れられるものではなく、自分でどうしたいのかを考え、それを試して試行錯誤を繰り返しているうちに「つかむ」ものだということ。
だからこそ、今までの日本での教え方のように、言われたことだけを何も考えずにやっていても、いつまでたっても何も得られないわけです。
吉井さんもプロになりたての頃、投げる時にどうしても体が早く開いてしまうという欠点があり、コーチからも何度も指導を受けました。何度やっても体は開いてしまうのですが、そこで吉井さんも「どうしたら開かずに投げられるだろうか」と考えて試行錯誤を繰り返していました。
するとある時、足を上げた時にお尻の穴を前に向けるように意識すれば体が開かないという「コツ」をつかみました。その結果、一軍で通用する投手になれたということでした。
これらのことから、自分で考えるという「主体性」の大切さを学んだということです。
コーチングの基本的な考え
コーチングには2つの行動基軸があり、一つは人間力の育成を目的とした「育成行動(育み育てる)」もの、もう一つは競技力・パフォーマンスの向上を目的とした「指導行動(指示し導く)」というものです。
このコーチングはあくまでアスリートファーストで行われ、人間力と競技力を同時に達成しようというものです。
大事なのは先述の「主体性」の観点からもわかるように、プロ野球の世界でも技術指導よりも自分で課題を決めて取り組んだり、どんな場面でも冷静に考え行動できるなどといった人間力の向上のための「育成」が主だということです。
次に重要なのは、この2軸のバランスを選手の成長に応じて変えていかないといけないということです。これを2軸によるマトリックスから4つのステージに分類したものが図子浩二氏による「スポーツコーチング型PMモデル」というものです。
第1ステージ(初心者段階):指導型コーチングスタイル 指導行動=大、育成行動=小
第2ステージ(中級者段階):指導・育成型コーチングスタイル 指導行動=大、育成行動=小
第3ステージ(中上級者段階):育成型コーチングスタイル 指導行動=小、育成行動=大
第4ステージ(上級者段階):パートナーシップ型コーチングスタイル 指導行動=小、育成行動=小
プロ野球でいう第1ステージとは高卒ルーキーなどが当てはまります。技術的には未熟ですので技術指導が中心になります。また彼らはモチベーションが高く、指導に対して素直に指導を受け入れますから、育成行動の割合が少なくて済み上達も早い。
第2ステージとは1軍と2軍を行ったり来たりするという状態。プロの技術を習得はしてきているが、1軍へ上がってもまだ壁にあたって2軍へ戻ってくるという状態の選手ですから、指導行動は引き続き大きいのですが、それ以上に失敗に対して考えさせる必要があり育成行動も大きくなります。特に、まだ若いので精神的にも未熟なところがあり、コーチの指導に対して反発をしたり落ち込んだりしてしまいます。それだけにこの第2ステージの選手に対する指導は一番難しいということでした。
第3ステージとは1軍に定着した選手が当てはまります。この段階では技術的に教えることはほとんどありませんが、プロとしての「在り方」を理解させ、それにふさわしい行動をさせるよう指導をすることになります。
第4ステージはプロのスペシャリストになっている選手で、技術面でも精神面でも教えることはほとんどない状態です。プロの中でもトップアスリートと呼ばれる選手です。ただ、それだけに問題も高度になってくるので、コーチはその選手のことを常に把握して問題に対処できなければ信頼関係が崩れかねません。
4段階に分けて考えると分かりやすいですが、実際はいろいろな選手がいて、各ステージを行ったり来たりします。コーチはそれぞれの選手のことを把握し、その時の状態に合わせて適切な指導を行わなければなりません。
コーチングの学習プロセス
吉井さんは現役を引退してコーチになったばかりの頃というのは、どうしても自分の経験体験だけを頼りに指導をしていました。
選手から質問をされても「自分の時はこうだったから、こうしなさい」というやりとりです。選手は色々な性格や考え方を持っているので、吉井さんと似たような選手であれば指導が合う可能性もありますが、ほぼ合うことはありません。その結果、誤った指導をしたことで混乱して崩れていく、あるいは故障してしまうこともあるということでした。
そういった失敗から正しいコーチングを学ぶ必要性を感じ、大学院で学ぶことになったわけです。
現在ではまず選手のことをしっかり観察をすることから始まり、選手に質問をすることで自己客観視させたり、選手が言ったことが間違っていても最初から否定せず一旦受け入れることで選手との信頼関係を築きます。その上で、コーチが選手の立場に立って考えてから、選手主体での指導をしているということでした。
これは選手の経験を通して学ぶサイクル(経験学習サイクル)に合わせて行うものです。選手は経験をした後に反省(内省)をすることによって、その経験から教訓を得て、次の新しい状況に適応していく、ということを繰り返すことでスパイラルアップしていきます。
コーチはこの反省(内省)を「質問」することで促し、教訓を引き出す手助けをしてあげるのが役目だということです。この質問で重要なのは状況や技術的な質問だけでなく、その時の感情についても質問をすることだと吉井さんは言います。どのように投げたのか、だけでなくどのような気持ちで投げたのかを質問することによって、その時の状況と気持ちになると自分がどのような行動をするのかを選手は気づきます。そこまで気づくことができないと変わることはなく、同じことを繰り返してしまうことになるということです。
つまり、この自分を俯瞰して捉え、それを言葉にするということが成長に繋がるということです。まだ未熟な頃は質問をしても単に結果だけを伝えるだけですが、このやりとりを続けていくことでその時の状況や気持ち、さらに自分の状態をもキチンと言葉にして答えられるようになってくるということです。
また、小さなことでも褒めることで自信につながり、次のチャレンジへのモチベーションになっていくということでした。
おわりに
最後に吉井さんはサッカーの元フランス代表選手で指導者のロジェ・ルメールの言葉を教えてくれました。
「(コーチが)学ぶことをやめたら、教えることをやめなければならない」
自分の経験だけで指導するコーチは、半分しかわかっていなくてもすべて知っているように話します。でも実際は選手とその問題課題は千差万別ですから指導が伝わらないことがあり、その場合は別の方法で伝えなければなりません。コーチは常に学んでいないと結果的に選手をダメにしてしまうことになるので、学ばないコーチは指導してはいけないということでした。
吉井理人コーチ、貴重なお話を本当にありがとうございました。
ご参加された皆様にも感謝申し上げます。